『カメラを止めるな!』の上田慎一郎監督作…のわりに、まったく知りませんでした。 『カメ止め』でも使われていた、複数構成で前半の伏線を後半で回収する方法、これを上田監督の持ち味として印象づけたい意図があったのかもしれませんが、この作品は3人による共同監督・脚本。そのせいでしょうか、全体的に雑然としていて『カメ止め』のような爽快感は皆無でした。 映画において共同監督というものがどういうメリットを齎しているのかはよくわかりませんが、3人共同制のこの作品では亀田家・兎草家・戌井家というちょうど3つの家族が登場します。しかしどの家も複雑な事情を抱えているのに、描き込みが足りていません。とくに戌井家においては、亀田・兎草家に較べてその背景がより陰鬱にもかかわらずいちばん描写が薄いので、三人の少女が主人公と表に出しているわりには、消化不良感がはなはだしくありました。 そもそもイソップ童話で思いつくのは『うさぎと亀』で、このお話も兎と亀の因縁に犬が絡んでしまう展開でしたから、『よくばりな犬』は蛇足だったのではないでしょうか。そして犬の童話がどう関係していたのかもよくわかりません。 また、後半に盛り上がるべきところでちょっとしたおふざけが入るので興が削がれましたし、ネタバラシのタイミングが悪く、前半の伏線も強引すぎて最後まで入りこめませんでした。 …とけなしまくりですが、これは『カメ止め』のせいでハードルが上がってしまったゆえでしょうか。 誰かひとりで作り上げたら、もう少しまとまったはずなのに…という気がしないでもありません。 PR 名作と名高いこの作品。 しかし映画に縁遠かった家で育った自分は、タイトルは知っていても観る機会に巡り合えませんでした。 1の公開から10年近く経っていた高校生の時、隣のクラスが授業で観たと聞き、「いいなー授業で映画なんて」と羨ましがったものの、そのクラスは英語専門でカリキュラムが違うし英語で観てもさっぱりわからないはずだから、そのうち吹替で観よう、と思いつつ、また10年近くが経過しました。 できたばかりのUSJに行って、アトラクションに乗りました。よく憶えていませんが、博士が出てきたような気がします。 そしてまた、経過すること10数年…。 やっとこさ、鑑賞です。もちろん吹替です。 1は10回以上観て2は映画館へ観に行ったという我が家の映画評論家が、隣で伏線を全部バラしてくれました。おかげで頭に入りやすかったです。 ネタを知っていても知らなくても楽しめる。つまり何度観ても楽しめる。 そして四十路のおばはんでも楽しめる。つまりどんな年代でも楽しめる。 すべてが完成しつくされた名作とは、そういうものです。 過去、未来、そしてずっと過去、3作品であらゆる世界を見せてくれました。 もっとも、「未来」の2015年はもうとっくに過ぎ去っています。 20世紀に夢見た21世紀は、車が空を飛んで全自動化すると信じられていたことを思い出しました。それでもさすがにスマホの登場は誰も予見できなかったようです。藤子・F・不二雄の描いた未来でも通信手段は電話ボックスでしたし。そう考えると、科学の発展は予想とは違う道を進んでいるのかもしれません。2015年版ビフのモデルらしいドナルド・トランプが本当に大統領になってしまったのは当時も話題になりましたが。 1だけでも隙のない完全無欠な作品ですが、当初想定されていなかったという2・3もじゅうぶん1に匹敵する作品に仕上がっています。最後にアインシュタインの顛末が回収されたことも、2で消えた彼のゆくえが気がかりだっただけにホッとしました。我が家の映画評論家は、2でマーティが「腰抜け」と言われると激昂するという唐突な設定と、3で恋に落ちたドクの自家撞着している言動には子ども心に若干ひっかかったそうですが。 こりゃ、10回以上観ても飽きない気持ちもわかります。 これからテレビで放送するたび何度でも観てしまいそうです。 『オールド・ボーイ』のパク・チャヌク監督作品ですが、なかなか強烈でした。 『オールド・ボーイ』を鑑賞時、「原作は知らないが、きっとこんなオチではないような…」と感じたものですが、同じ原作モノであるこちらも「絶対こんな話とちゃうやろ!?」という確信にも似た感想を抱かざるを得ませんでした。 あらすじを読む限り、「下町の娘が詐欺師と共謀して上流階級の家へメイドとして忍びこむ」「どんでん返しが待っている」「百合」という大きなファクターは踏襲してはいるものの、むしろそれしかなぞっていないような気がするのはなぜだろう…。 原作は賞も獲得しているくらい優れたミステリーですから、そのまま描けばいいものを、重要などんでん返しの秘密についてはサラッと流してしまっています。主人公の二度にわたる逃亡劇も、呆気に取られるくらいアッサリ成功します。 また、主人公とお嬢さんの愛にそこまで感情移入もできず、無駄になっがいなっがいエロシーンも女性の性の解放というようなメッセージ性は受け取れません。 アッと驚く謎解きものや、ふたりの前に立ちはだかる障害を克服するラブストーリーというよりは、パク・チャヌク独特の不穏に満ちた雰囲気を楽しむ作品のように思います。 その「雰囲気」自体は、素晴らしかったと思います。 舞台は原作のイギリスから日本統治下の韓国に変更されています。その不安定な政情を象徴するような「日本」「韓国」「西洋」のミックスされた上月家のしつらいは、陰謀と秘密を抱えた家内の落ち着かなさそのものでもあります。 日本人の嫁の遺産を狙うため相続権のある姪との結婚をもくろんでいる親日派の朝鮮人・上月。 その遺産の横取りを狙っている詐欺師の藤原伯爵。 詐欺の片棒をかついで屋敷に潜り込んだ少女・スッキ。 彼女が仕えることになったお嬢さん・秀子。 四者四様の思惑が絡み合う第一部、秀子と上月家の秘密があきらかになる第二部、それぞれの愛の結末が描かれる第三部と章立てながら、展開にスピード感があり、145分をラストまで一気に見入ってしまいます。 秀子は純日本人の設定のため日本語会話は少なくありませんが、演じているのは韓国人俳優ですから言葉遣いはたどたどしいです。しかしほとんど気になりません(日本語の場面は字幕が出ないため少し聞き取りにくいところはありましたが)。 むしろ秀子を日本人が演じなくて良かったと思います。日本人が流暢な日本語で「ま(ピー)」だの「ち(ピー)」だのを連呼していたら、あの場面は悲惨なものにしかならなかったと思います。 いや、秀子の生い立ち自体は悲惨でしかないのですが、あの朗読がカタコトであったからこそ、「若い娘がエロ小説をオッサンどもの前で朗読させられる」という異様な光景を、秀子の視点でなく第三者として俯瞰でき、悲劇ではなく喜劇の一場面として受け取れたのだと思います。 最後に笑ったのは、上月と藤原に利用されていた(と男たちは思っていた)女ふたり。 彼女たちを手玉に取ったつもりでいた男は、すべてを失い敗れ去ります。 日本に向かう船の中、勝利の美酒(互いの…か)に酔う秀子とスッキ。 とどのつまり、「いつの時代も男はアホだ」。この感想につきるのです。 ・LOVEHOYELに於ける情事とPLANの涯て:★★☆☆☆ 『ダークナイト』で強烈な印象を残し、演じたヒース・レジャーが公開前に急死したことも相まって、ひとつの伝説になってしまった「ジョーカー」という存在。 アメコミに詳しくはないのですが、悪役のひとりに過ぎないキャラクターがここまで注目されるのは、日本でいえば敵役で人気を博したシャア・アズナブルや志々雄真実のようなものでしょうか。 しかしキャラに命を吹きこんだジャック・ニコルソン、その生きざまを手触りあるものにしたヒース・レジャーというふたりのジョーカーがいなければ、おそらくこの前日譚も産まれなかったかもしれません。 そして今作のジョーカーを演じたホアキン・フェニックスは、ジョーカーが生まれていく過程を説得力を持って表現しています。まさしくここから、あのジョーカーにつながっていくのだという確信を得る演技でした。 物語は、主人公アーサーの視点で展開していきます。 のちのジョーカーとなる人物ですから、倫理観は常識の範疇ではありません。むしろ狂気を孕んで、観る者を巻き込んでいきます。 善と悪。生と死。愛と憎しみ。悲劇と喜劇。すべての事象は合わせ鏡。 混沌とする街で夢かうつつかもあやふやな日々を送るうち、アーサーの内面に育まれていったジョーカーは、やがて彼の心を支配していきます。 そして、何人もの命を奪い、暴動を起こす市民たちのカリスマ的存在となるのです。 しかし果たしてそれが現実のできごとなのか、判然とはしません。 アーサーは脳に障害を負っており、薬も服用しています。描かれてきた「事実」が実はアーサーの妄想であったことが示唆される場面もあります。 ですから、アーサーがジョーカーとなった「事実」も、実は精神病院に収容されたアーサーの妄想なのかもしれません。むしろ最初から、すべてが妄想だったのかもしれません。 ただ、すべてを妄想と切り捨てるには、それまでのアーサーの境遇はあまりにも悲愴に満ちており、むしろ彼がジョーカーとなって初めてアイデンティティを手にした瞬間がある種のカタルシスをもって描かれていただけに、彼は彼を傷つけ苦しめ貶めていた社会からようやく解放されたのかもしれないと、その存在を受容してしまう自分を否定できません。 だからこそ、この作品は賛否両論なのだと感じます。 舞台である80年代と今のアメリカは、たいして変わらないのかもしれません。格差も差別も、社会に根強く残っています。その価値観のすべてを狂気によって覆し、貧困にあえぐ民衆のカリスマとなったジョーカー。彼の存在をあがめることは、危険思想そのものです。現実にも、ジョーカーのような存在が現れないとも限らないのです。妄想オチという解釈の余地を残したのは結果的に良かったのかもしれません。この曖昧なラストが作品の質を落としているわけではありませんから。 最初から最後まで、ジョーカーになりきったホアキン・フェニックスは、オスカー受賞も納得の怪演でした。 しかし今後、ジョーカーを演じようという勇気ある俳優は出てくるのでしょうか。 |
* カレンダー *
* 最新記事 *
* ブログ内検索 *
|