もう20年も前の作品になります。しかし舞台がもともと80年代なこともあり、古臭さはまったく感じませんでした。 イギリスの炭鉱街で暮らすビリー。ピアノを愛していた母を亡くし、坑夫の父と兄は労働争議の真っ最中、自身は認知症の祖母の世話に明け暮れる毎日。習っているボクシングにも身が入らず、鬱屈した思いを抱えて過ごしていました。そんなある日、ボクシング場に移動してきたバレエのレッスンに飛び入りしたビリーは、今までにない開放感を憶えます。彼の秘密の時間が、始まったのでした。 炭鉱というと、どこか哀愁が漂います。『フラガール』で描かれていたように、日本で炭鉱の閉山が相次いだのは60年代のことでしたが、産業革命の創始国イギリスにおいても、その斜陽化はまぬがれないものでした。この作品で描かれたストは、全国的に広まっていた活動だったようです。街全体に漂う閉塞感は、大人のみならず子どもにも影響を及ぼしていました。誰もが発散させる何かを欲していたのです。ビリーはようやくそれを見つけました。踊ること。その間だけは、何も考えずにいられました。父のことも兄のことも祖母のことも母のことも、友達のカミングアウトのことも、もしかしたら好きかもしれない女の子のことも、街と自分のこれからのことも。 バレエなんぞと芸術を軽視していた父親を前に、説得の言葉を持たない彼がただひたすらにダンスを踊って訴える場面は胸を打たれるものでした。父も我が子に語りかける愛の言葉を持てずにいて、だからこそ彼が示せる愛は、学費のためにみずからの信念を曲げてスト破りをするというものでした。あれほど強固な姿勢を見せていた父が涙を流す姿に、ストの先頭を切っていた兄も心揺さぶられます。 それから、家族はひとつになってビリーの夢を支えました。目を離せば徘徊するようになっていた祖母は、旅立つビリーに向けて心にただひとつ残っていた彼への愛をせいいっぱいのハグで示しました。兄は届かないとわかっていてバスの窓越しに「寂しいよ」と本音をつぶやきます。この家族は誰もが不器用で、それでも愛にあふれていました。夢に向かってロンドンへ羽ばたいていったビリー、ふたたび坑道に潜る父と兄。行く先は逆でも、愛はいつでもつながっていました。ビリーの夢という糸によって。 そして数年後。ロンドンの大きなホールで、その夢が咲き誇ろうとしています。客席で待つ父と兄の愛がスポットライトとなって、ビリーの舞台を光り輝かせることでしょう。その一歩目の跳躍で、物語は幕を閉じます。 11歳。子どもと呼ばれることに抵抗を感じ始める時。少し大人ぶってみる。しかし大人には相手にされない。大人の事情をわかったふりをしてみても、本当にはわかっていない。この年頃にしかいられない世界、この年頃だけに生まれる衝動。抱える思いを表現する言葉を知らなくて、坂道を駆けあがった。何かに向けて叫んだ。そして家族の待つ家に帰った。少し大人になっていた。 そんな人生のほんの一瞬を切り取った、ポートレートのような作品です。 PR 中国史といえば『三国志』が有名ですが、そのさらに前の時代である春秋戦国時代に目をつけるとは驚きです。 教科書でしか知らない秦の始皇帝、やがて彼の将軍となる信が主人公です。紀元前ですから史料も少なく、謎の多い時代ですが、だからこそたっぷり味つけができます。原作のあらすじを読むと虚実とりまぜたさまざまな人物が登場し、物語を彩っているようです。しかし50巻以上刊行されているので、手を出す気になれません。ラストまでいったい何年、何巻かかるのやら。 しかし少年はでっかい夢が好きなもの。一度は都を追われた王が仲間を増やしてその玉座を取り戻すこと、戦争孤児の下僕が腕一本で将軍に成り上がること、誰も想像すらしない中華統一という目標に少しずつ近づいていくこと、この一大叙事詩には少年の心を躍らせるすべての要素が詰まっています。おそらく多くの少年、元少年がその夢への道程を追いかけ続けるはずです。 そして信は、典型的な少年漫画の主人公です。やんちゃで無法者、顔は二枚目半で頭脳は三枚目、しかしピンチの時にはその無鉄砲ぶりが頼もしく見えるので男女問わずモテる。その相方に文武両道の正統派イケメンがいるというのもよく見る設定です。そして強くて賢いヒロイン(のちに主人公と結ばれるであろう)、なぜか露出の高い女将軍(主人公との恋愛には絡まずおそらく側近とイイ感じ、のはず)という少年漫画の必須アイテムも勢揃い。 そんなザ・少年漫画を、よくここまで丁寧に実写化できたなと感心しました。 なんといっても、そのザ・少年漫画の主人公を体現できる山崎賢人という俳優が存在したことも大きいでしょう。黙って立っていれば政を演じる吉沢亮にひけを取らないイケメンなのに、ちゃんと野放図な信になりきっていました。吉沢亮の凛とした大王ぶりも存在感が大きく、漂と演じ分けられていて良かったです。 CGやアクションの迫力もクオリティが高かったです。映画館で観るべき作品ですね。 ただ原作に忠実すぎたのか、いかにも少年漫画風なセリフ回しと、展開が読めてしまうところも多くて少し残念でした。 しかしこの作品は、壮大な物語のまだまだ序章といったところ。橋本環奈なのに男の子なのか? と気になっていた河了貂がやはり女性であることは最後まで明かされなかったし(あとで知った)、名前だけしか登場しなかった呂不韋がどんな人物なのかも気になるし、敵と見せかけて味方っぽい王騎と信の今後のかかわりも気になる。続編は製作されていくのでしょうか。いくら政が中国を統一したのは40歳手前とはいっても、今のキャストがオッサンになりきる前に、原作が終わることを祈るばかりです。 世間で大絶賛され、実際に観て感動した『トイ・ストーリー3』の続編。その割に、芳しい評価が聞こえてこないので気になっていました。 で、実際に観た感想としては、既存ファンの低評価も納得と言わざるを得ません。 単体で見れば、面白いです。アニメとは思えない迫力も臨場感もピクサーにしか作れない高品質で、おもちゃたちの奮闘に拳を握ってしまいますし、悪役に用意された救済も心あたたかくなります。 でも、なーんか違う。 コレジャナイ感が強すぎる。 『3』しか観ていませんが、これまで引き継がれてきた持ち主の子どもとおもちゃたちの絆、おもちゃたちが心に秘めている使命感や一体感が、きれいさっぱり失われているのです。 そして一貫して主人公だったウッディの存在感がまるでありません。バズに至ってはモブもモブ、むしろアホキャラ。さらに致命的なのは、新キャラであるフォーキーの魅力をまったく感じられなかったことです。ことあるごとにゴミ箱へ直行しようとするくり返しには途中でうんざりしてきました。そして、ウッディがフォーキーに執着する理由は百歩譲って理解するにしても、結局使命感を持って寄り添っていたはずの持ち主のボニーの元を離れて旅に出るという変心に説得力を感じられませんでした。 どうしてこんなラストになったんだろう? と気になっていろいろ調べていくと、『3』までの製作者が不祥事で会社を離れ、新監督になっていたことがわかりました。そりゃ、雰囲気が変わるのも仕方ありません。しかもその不祥事がセクハラとなれば、時代に合わせた新しい女性像を描き続けているディズニーにとってはもっての外。ウッディやバズという男性キャラがメインのこの作品で、彼らを差し置いて外の世界で自立している女性(ボー)の活躍をメインに描いたのも、むしろあえてのことだったのかもしれません。 でも、既存ファンはそこを望んではいないのですよね。女性の活躍はプリンセスもので観ればいいのだし。おもちゃの世界に性差を持ち込まなくてもいいと思うのです。このシリーズにおいて活躍するのはウッディやバズや仲間たちであるべきであり、もちろんボーにスポットを当ててもいいのですが、その代わりに他を落とす必要はないはずです。ましてその対象が主要キャラであれば悲しい限りです。 今度は外の世界で活躍するウッディとボーのお話になるのでしょうか。あまり興味が湧かないな。 「おもちゃがなくなってる! あれ、いつの間にこんなところに、どうして?」という、誰でも経験したことがあるけれどたいして気にも留めなかった幼少期の一場面がよみがえり、「もしかしたら自分のおもちゃたちもこうして動き回っていたのかな」と、童心に戻ってワクワクできるところが良かったのに、あまり人目を気にすることなく走り回るおもちゃたちの活躍を観ても、そんなに面白くないと思うのです…。 同じ制服を着て教室の中に閉じ込められていることに、息苦しさを感じていました。 日々の手触りを感じられなくて、自分の存在感もつかめなくて。 ここから出たら、大学に入れば、何かが変わると思っていました。ほんとうの自分が見つかると思っていました。 けれど何も変わらなかった。 私は変えてくれる何かを待っていただけでした。どこにも落ちてなどいない、ほんとうの自分とやらを下を向いて探していただけでした。 きっと彼らも、同じだったのだろうと思います。 なんとなく大学に行って、「君のことを教えて」と訊かれても何も答えられず、きっとこの先も流れのままに就職するだけ。それを味気ない、実感のない生の営みと感じていました。 たぶん、好き嫌いの分かれる作品なのかなと思います。 惜しみない愛を与え大学に通えるだけの経済力を持つ両親がいて、「ほんとうの自分とは何か」を考えていられるだけの余暇があり、犯罪には相応の罰を与えられるべきという社会的に真っ当な倫理観を持って育ち、若さのエネルギーを持て余して現実にもの足りなさを感じた経験の持ち主であれば、彼らに共感できるでしょう。一方それらを欠いた視点で観れば、彼らのあまりにも稚拙な犯行を、いわゆる中二病の一種のように捉えるかと思います。 ちょっとワル風味なウォーレンだって、世間から見ればただの優等生です。スーパーのカートを燃やして騒いでいるホンモノのヤンキーとはつるむことができません。彼らにカートを燃やす理由は存在しません。たぶん「面白いから」「退屈だったから」、そんな答えが返ってくるのだろうと思います。しかしウォーレンは廃棄品の窃盗のいいわけに食料問題を持ち出すように、みずからの行動に基準を必要とする人間です。画集の泥棒計画も、もしそれが個人の所有物であったらおそらく実行には移さなかったでしょう。持ち主が大学という実態のない組織であり、司書は管理人にすぎない存在だったから、彼は彼の倫理観に訴えたうえで自分を納得させたのだと思います。 ウォーレンに巻き込まれるようなかたちで犯罪にかかわったスペンサーも、チャズやエリックも、それを悪いことだと自覚しながら、「誰も傷つけない」ことに自分たちを納得させてその計画に乗りました。 しかし、犯罪には必ずそれにかかわる相手がいます。誰かが傷つくから、犯罪なのです。 ほんとうの自分を探して下を向いてばかりの彼らに、その「誰か」が見えるはずはありませんでした。 自分たちの暴力で傷ついた司書を前にして、ようやく彼らは自分たちが犯した罪の大きさを自覚します。それからの彼らは、まるで早く捕まることを待っているかのようでした。 逮捕され懲役刑を受けて安堵したと彼らは言います。 なんとなく『ぼくらの七日間戦争』を思い出しました。大人たちへ反旗をひるがえした少年少女を描いたこの作品は今でも増刷を重ね、子どもたちの心をとらえています。どの時代のどの読者も、作品の中に夢を見ます。主人公たちの行動は現実には不可能であることを理解したうえで楽しんでいるのです。誰もが心の中にレジスタンスへの衝動を抱えながら、社会との折り合いをつけて成長していくのです。 彼らが「学校」「校則」を敵と見なして行動したのに対し、ウォーレンたちに敵は存在しません。彼らは何ものにも縛られてなどいないからです。束縛から解放され、集団から個になることを求められた時、みずからの存在感の不安定さに、空に漂うような不安に襲われます。明確な敵を失い、その視線はみずからに向かわざるをえません。 他者とのかかわりなくしては生きていけない以上、個は他者の中にあるからこその個となり得るのであり、個を見つめるには他者に目を向ける必要があります。それを彼らは、そして私自身も気づきませんでした。 他者への視点を失ったからこそ、成せなかった完全犯罪。被害者となった司書の女性は、この映画を観てようやく加害者を許せる気持ちになったと語ります。想像を絶する恐怖を味わいながら、過去を客観的に見つめ、そして他者である加害者へも目を向けたのです。 いっぽうの加害者たちはどうなのか。 『アイ、トーニャ』と同じ作りで、映画内では過去と現在を往来し、現在の彼らが当時を語ります。異なるのは現在の彼らが役者ではなく、実際の犯人であることです。 被害者は許すことで区切りをつけられる。しかし加害者は刑期を終えてもなお深く刻まれる後悔に苛まれています。そして、かつて友人であった彼らの生涯は、その苦い記憶ゆえにおそらく一生交わることはないであろうと思われます。若さゆえの過ちというにはあまりにも大きな代償でした。 青春時代を語る時は、誰もが遠い目になります。 あの頃のエネルギーと余暇は、二度と戻ってこないことを知っているからです。 しかし青春の真っただ中にいる時は、そのことに気づかない。いちばん大事なことは、いつも失ってからわかるのです。 しかし彼らのように後悔だけの思い出には残したくないものです。『七日間戦争』はあくまで夢の話なのですから。 ずっと観たいと思いながらなかなか機会にめぐりあわず、最近になって真犯人が現れたというニュースが流れて興味が再燃し、ようやく鑑賞できたこの作品。 『グエムル-漢江の怪物-』のポン・ジュノ監督作品とあって、構成も演出効果も素晴らしくスピード感があって、最後まで惹き込まれました。 実際に韓国で起きた連続殺人事件がモチーフになっています。80年代の終わり、まだ科学捜査は一般的でなく、警察内部でも暴力による自白強要や証拠品の捏造が横行している時代のことでした。折しも国内では民主化運動が激化しており本部の人員は手薄、捜査は後手にまわらざるをえません。「いつもの手口」で解決させようとする地元警察のパク刑事たちに対し、ソウルから応援に来たソ刑事は「書類は嘘をつかない」という持論で犯人像を推理していきます。 性格も仕事ぶりもまったく違うふたりがぶつかるのは至極当然。しかし、無惨な遺体を前にふつふつと湧いてくる真相をつきとめたいという思いは同じ。パク刑事の野性的な観察眼、ソ刑事の冷静なひらめき、互いが互いの長所を認めるのに時間はかかりませんでした。 田舎者と都会者、大柄とイケメン、一見ステレオタイプではあるのですが、決して使い古された感はありません。緊迫感ある展開とともに、ふたりの刑事の個性が実に魅力的に描かれています。 そして犯人の目星がつき解決しかけたかに思えた終盤、真相が再び闇の中に鎖ざされた時、ふたりが見せるそれぞれの絶望。知っていたはずなのに胸が苦しくなりました。 公開当時はもちろん未解決だったこの事件。刑事の職を辞し営業マンとして成功していたパクは、道中たまたま最初の現場を通りかかります。そして、真犯人も同じようにその場を訪れていたことを知り、パクの目は一瞬で商売人から刑事のそれに戻ります。 激しい怒りと憎悪をよみがえらせたソン・ガンホの両目に射抜かれるラストカットには、「真犯人が観ているかもしれない」という監督の思いがあったといいます。エンターテイメントの中にも作り手の強い意志を潜り込ませるポン・ジュノらしい演出でした。 バディを演じたソン・ガンホとキム・サンギョンをはじめ、次々現れる容疑者にいたるまでキャラクターがはっきりしていて感情移入しやすかったです。本物の事件に肉づけされた部分も多くあるでしょうが、もちろん当時のことを知らないだけに純粋な娯楽作品として楽しむことができました。ソ刑事に噂話を教えた女子中学生が被害者となった場面は、彼に貼ってもらった絆創膏をそのまま遺体に残していたことも、それを見たソ刑事が怒りのあまりかつて批判していたパク刑事らのやり方そのままに容疑者を暴行し罪を認めさせようとしたことも、結局その容疑者の潔白が判明したことも相まって、切なかったです。 結局未解決に終わったからこそ物語がドラマチックであったのは事実ですが、真犯人が判明したからといって(しかも犯人は別件で服役中のうえこの事件は時効済み)、もちろんこの作品の価値が下がるわけではありません。ただ、未解決のうちに鑑賞しておけば、より心に響くものがあったかもしれないと少しもったいなく思います。 |
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