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いかに寝て起くる朝に言ふことぞ昨日をこぞと今日をことしと(小大君)
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プロレスブームがあったのは私がまだせいぜい小学校低学年くらいの頃の話だと思いますが、毎晩夢中になっていたツレと違い、私はゴールデンで中継されていたプロレス番組を観たことがありません。家族(男)がプロレスに興味がなかったことと母親が格闘技を嫌いだったことが原因だったように記憶しています。とはいえ、もちろんジャイアント馬場やアントニオ猪木の名前は知っていますし、高三の文化祭にはプロレスファンのクラスメイトの強い希望でプロレス再現ビデオを作成し、卒業記念品のためにクラス代表がジャイアント馬場にサインをもらいに行き、卒業式の日にはなんとジャイアント馬場から豪華な祝電が届きました。良い思い出です。
その頃にはすでにもうプロレス中継はされなくなっていましたが、ビデオ作成を仕切っていたのはなぜか隣のクラスの担任でした。馬場のサインをもらいに行った大阪府立体育館にはまったく関係のない何の科目担当かも知らない男性教師がついてきたといいます(その熱烈な応援風景は同行したクラスメイトが忠実に再現してくれた)。あの熱狂的なプロレスブームは、十年近く経たのちも深く心に刻みこまれていたのです。もちろんツレも例外ではありません。レスラーの出自や過激な演出がすべて作られたものであったことを知っても、幼ない頃のセンセーショナルな記憶はなおファンの心の中で色鮮やかに刻みこまれているのです。
「古き良き思い出」を忘れられないのは、ファンだけではなく当事者も同じです。
かつてスーパースターであったレスラーのラム。今では体力も技術もすっかり落ちぶれたものの、スーパーのアルバイトとかけもちしながら細々とレスラー稼業を続けてきました。痛々しい姿をリング上で晒し、心臓に支障をきたしてしまうも、心の支えはストリッパーのキャシディ。そして娘のステファニー。一度は心を通わせるも、みずからの弱さが原因で関係は壊れてしまいます。結局、自分の居場所はリングの上にしかないと、命の危険を知りながらもふたたびリングに上がることを決意したラム。試合の相手も制止するほどの瀬戸際に立たされながら、それでもラムは観客の声援に応えるように戦いを続けます。
ラムは愚かな人間です。選手としてのピークは過ぎてもリングに固執し、女とクスリの誘惑には勝てず、娘にも愛想をつかされ、好きな女にフラれてはやけっぱちになり。
しかし、人間とはそんなものです。かつてのスーパースターも、平凡ないち市民も、なにも変わりません。人生の軌道修正は容易ではありません。とくに老いてはなお、今までの自分を変えることなどできないし、ましてや時間を戻すことなどできようはずがないのです。
しかし、愚かであればこそ、ひとの人生はよりいっそう輝きを増していきます。悲しく小さく不器用で、それでもひたむきに懸命に生きようとする命。死を覚悟したリングにあっても、彼はその間際までスポットライトを浴びて輝き続けたのです。そしてその思い出は、20年を経ても変わらぬ瞳で声援を送り続けたファンの心の中で、輝き続けることでしょう。多くのプロレスファンがそうであるように。
プロレスが多くの演出による嘘の世界であったことがわかったとしても、その思い出が否定されるわけではありません。隣のクラスの担任も、名も憶えていない教師も、そしてツレも、皆そのプロレスの思い出の中にいます。そんな幸せな世界を知らずにいたことが、少し残念な気もするのです。


【ヤスオーの回想】

 上のさや氏の感想にも書いていますが、僕は80年代プロレスが大好きでした。子どもの頃はプロレス(全日本と新日本)は絶対に観ていましたから。そして、その頃好きだったタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンが、何十年も経ってヨボヨボの姿で出てきたのを観ると、ちょっと哀しくなりますが、決してバカにはしません。むしろ尊敬や称賛の心しかありません。この映画でも落ち目のランディがリングに上がっている時にファンはバカにしていましたか。していなかったでしょう。レスラーは普段から身体を鍛え、その身体をリングで酷使しています。それだけでなく、この映画でも描いてある通り、凶器攻撃で血みどろになったり、カッターで自分を切って流血シーンを演出したり、副作用があるのはわかっていながらステロイドを服用したり、自分の身体を過度に痛めつけています。しかしそれはひとえにファンを楽しませたいからです。試合展開はやらせでも、そこまでしてファンを楽しませたいという気持ちは本物です。ランディは元々は一世を風靡した人気レスラーということですから、それは最も強かったとかではなく、ファンを楽しませたいという気持ちがトップクラスであったということです。タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンも同じです。それをファンはわかっているから、敬意を払うのです。

 この映画は、技がかっこいいとか勝った負けたではない、上の段で書いたようなプロレスの持つ本当の魅力をきちんと描いています。それだけでも僕は感動しましたね。リングではファンからブーイングばかりされ家族にも見放された落ち目のレスラーが、何かのタイトル戦で奇跡の技が決まって勝ってチャンピオンになり、ファンは大喝采で家族にも尊敬されたみたいな話なら、僕はこの映画をボロクソにけなしていましたから。こういう映画じゃなくてよかったです。

 この映画のランディの人生は悲壮感しかありません。ストリッパーにもフラれ、惣菜のバイトもキレて辞めて、娘にも決定的に嫌われ、現実の世の中が嫌になって、リングにしか自分の居場所はなくなってしまいます。孤独に悩みながらしょぼく生きるなら現実社会でも居場所はあると思うんですが、ランディはシビアな現実と過去の栄光との折り合いが付けられない人間です。

 しかし、娘との会話のシーンなんかでわかるように、ランディは自分がダメ人間であることを分かっていますし、元人気レスラーだからといって周囲の人に傲慢に接することもありませんので、過去の栄光が現実社会では通用しないことも分かっています。もちろん心臓が悪いからもうプロレスはできないこともわかってますから、リングに上がるというのは理屈に合いません。ただ、そういう理屈に合わないことをしてしまうのが、不器用な人間なんです。こんなことしたらエライことになる、損しかしないと分かっていても、自分の中にある美学というか、信念というか、とにかくその人間の中にある何があっても変わらないものに逆らうことができない。ランディの場合は自分の命すら賭けていますから、不器用な生き方の極致とも言えるでしょう。

 損得勘定に基づき環境や状況に柔軟に対応できる人間からしたら、こういう人間はただのバカなんですが、少しでも人の心があるなら、こういう人間の生きざまを見ていると、けなげだし、悲しいし、哀れだし、カッコいいし、とひとことでは言い表せない様々な感情が沸き起こります。この映画は過剰な演出を一切せず、こういう不器用を極めた男の生きざまを淡々と描いています。それが逆に心をストレートに揺さぶってきますね。

 主演も落ち目のミッキー・ロークですし、いやミッキー・ロークはむちゃくちゃ良かったですけどね。今までこの人を上手いと思ったこともないですが、この映画での彼の表現力は素晴らしいです。

 ただ、どこからどう見てもそんなにお金がかかっていないのに、これだけ完成度の高い映画を作った監督のアロノフスキーはすごいですね。同じく落ち目のヒーローである主人公の悲哀や孤独を描いた松本人志監督の「大日本人」より明らかに出来がいいですね。「大日本人」は社会風刺、愛国心、お笑い、疑似ドキュメンタリー、世界観の崩壊など色々詰め込んだ「怪作」ですから、こういう正統派の映画と比べるのはそもそもナンセンスですが。
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ホラー映画の中に入り込んでしまった5人の若者のお話。
ホラー映画は苦手ですし、有名どころの『13日の金曜日』や『エルム街の悪夢』すら観たことがないのですが、この作品には、キャンプ場にまつわる伝説、女とヤることしか考えていないおバカ男(そして最初に死ぬ)、無意味に出てくる女性の裸、私でも知っているようないわゆる「B級ホラー」あるあるがてんこ盛り。それなりに楽しめたのは、このコンパクトな世界観の中にそんなあるあるを逆手に取った演出が盛り込まれていたからだと思います。
面白かったのは、『血まみれのキャンプ場』の世界に入ってしまった直後。登場人物たちの乗った車が通りすぎます。あぜんとする主人公たち。車は何度もやってきて、同じセリフを投げかけます。つまり、話しかけないと、物語が始まらないのです。まるでRPGのよう。
最初はとまどっていた主人公たちも、殺人鬼と戦う決意をするにつれ映画の登場人物と親交を深めたり、戦闘場面においてはピンチになると回想シーンに逃げたりとすっかり「映画世界」を満喫。それでも狂った殺人鬼の前にはなすすべなく、ひとり、またひとりと斃れ、それでも最後はファイナル・ガール(処女というのもお約束?)の鮮やかな太刀さばきで勝負決するという、割と普通のエンド(映画内映画の)でした。
映画の登場人物には、主人公の母親がいます。
作品内ではもちろん親娘ではありません。娘は娘と名乗れずに、それでも大切な人と呼びかけます。大好きな母親にもう一度会えた、もう死なせたくない、そんな娘の奮闘と母への愛も、この作品に単純なB級ホラーパロディものからひとひねり加えています。
タダでは終わらないラスト(映画自体の)も良かったですね。
低予算映画をもじった低予算映画でしたが、その低予算を逆手に取った工夫がこらされていて、なかなか面白かったです。












この映画はジャケットでネタバレしてしまっているのですが、簡単なあらすじ以外は前知識なしに鑑賞しました。
最初はホラーかなと思わせておいての「実は…」とネタばらししていく展開は、テンポが良くて伏線の回収の仕方も不自然さがなく、登場人物それぞれのキャラクターもしっかり確立されているので、ラストまで退屈することなく楽しめる作品でした。
これは『ゴーン・ガール』のように、結局「男はクズで女は怖い」という原理への着地だと思うのですが、これまた『ゴーン・ガール』と同じく男と女で解釈の異なる作品のようです。
男のヤスオーはファビアナ寄りでした。確かに、けなげで優しいファビアナに傷心のアドリアンが惹かれるのは自然ですし、それに足るファビアナの魅力もじゅうぶん伝わってきたのですが、ファビアナがベレンを見殺しにしようとしたことはスルーなのでしょうか。ベレンが閉じ込められたのは確かに自業自得なのですが、身勝手なアドリアンにちょっと痛い目見せてやろうという気持ちは理解できますし、ふたりの情事を目の当たりにした時の彼女の苦痛たるや想像するだけで胸を引き裂かれるようです。これも私が女でどちらかというとベレン側だからでしょうか。
そもそもの元凶であるアドリアンが負った痛手は、ベレンに続きファビアナまでも失う(であろう)というものでした。しかし行方不明になったベレンを想って流した涙も乾かぬ間にちゃっかりファビアナをゲットし、その一方で仕事仲間との関係も続けていたわけですから、おそらファビアナがいなくなって落ち込んでいてもスペインに帰ればまた新しい女ができるでしょう。つまりたいした影響はないと思われます。
要するにこんな男には騙されるなという教訓も含んでいるのですかね。








韓国の田舎のとある村、谷城(コクソン)。山奥で暮らし始めた怪しい日本人の男。村人が家族を惨殺する事件が連続して起きる中、警察官のジョングたちは、彼が事件にかかわっているのではないかという噂を耳にして彼の捜査を始めます。
彼の家で目にした、秘密の祭壇。壁じゅうに貼りめぐらされた写真。そして娘の靴。
ジョングの不安は的中し、男と関りを持った娘はその日から高熱を発し、人格も変貌してしまいます。とまどう家族は祈祷師を呼びますが、祈祷中苦しむ娘を見かねたジョングの妨害によって除霊はなりませんでした。そして山奥では、謎の男もまた、祈祷を行っていました。
序盤はのどかな村の警察署内、ジョングと同僚のとぼけた会話が笑いを誘います。しかし緑豊かな背景にはそぐわない、生々しい血痕の残る殺人事件によって、雰囲気は徐々に不穏なものへと変化していきます。さらに、國村隼演じる日本人男の不気味な行動、彼の情報をジョングに告げた正体不明の白い女、色鮮やかで騒々しい祈祷など、物語は一気に底なしの闇へと転がり落ちていきます。
娘を思うあまり、人を殺めることもいとわなくなったジョング。変貌したのは彼と娘だけではありません。コクソンに在るすべてが、様変わりしてしまいました。
闇は明けることなく、魂が救われることもありません。
血塗られた村は色を取り戻さないまま、多くの謎を残して物語の幕は降ります。
山奥の男の目的は何だったのか。
なぜ日本人でなければならなかったのか。
なぜ彼の写真を祈祷師が持っていたのか。
見習い神父が見た悪魔は現実なのか。
白い女は敵だったのか味方だったのか。
何もかもが、謎のままです。
しかし、その答えが果たして必要なのかも、わかりません。
人は神ではなく、悪魔でもありません。しかし無償の愛を捧ぐ人のために人を殺めることもできる人は、神と悪魔どちらにもなりうる存在です。人を表現するのに解はひとつではないのです。
祈祷が人を護ることもあれば人を呪うこともできるように。
ならばさまざまな姿を見せた山の男は、神でも悪魔でもなく、ただの人間だったのかもしれません。
この作品を観ている自分自身の中にひそむ、生身の姿だったのかもしれません。

【ヤスオーの回想】

 「ヤスオーのシネマ坊主」では最初4点を付けて、5点に直した映画ですね。どうして最初4にしたのかというと、「何かすごい映画を観た」しか言葉が出ず、そのすごさを言語化できなかったからですね。緊張感とか衝撃とかそういう簡単な言葉で表現できるものではありませんでしたから。

 僕は映画を観る時はストーリーを把握することを最優先で映画を観ています。観る時の集中力は半端ないです。雰囲気に浸って楽しむのは二の次で、画面上のどんな小さな情報でも拾って覚えて考えるよう努力していますから。こういう自分の分析力に自信がある人間がこの映画を観ると最もダメージを負います。どう考えてもストーリーの辻褄があいませんから。ネットを調べたら色々な解釈が載っていますが、おそらくこの映画はそういう解釈を楽しむ映画ではありません。こちらを惑わせて、混乱させることを狙っている映画ですから、ストーリーの合理的な解釈をしようとしても、よけい混乱するだけです。合理性、妥当性というものがあれば安心するのですが、この合理性や妥当性は当然のことながら、その人の頭の中にある常識や感受性を根拠としていますからね。この映画はそういうものを壊しにきている映画ですから、そんなことをしようとしても無駄だと思います。

 しかし、どんな人間でも映画に限らず、日常生活において今目の前で起きている出来事について、考え、理由づけして生きていますから、そういう人間の根源的なところを壊しにかかられると、心がかなり疲弊しますね。おそらく誰もがこの映画を観た後は僕と同じく疲弊しつくした状態で呆然自失となってしまうでしょう。この映画のキャッチコピーの「疑え、惑わされるな」は、登場人物だけでなく我々にも向けられている言葉でしょうが、すべてのことを疑うというのは人間は不可能ですし。疑うにしても、疑う根拠となる思考の基準がありますし、その基準がこの映画では曖昧になりますからどうしようもありません。あれ、この映像はおかしいぞ、と疑っても、そもそもその映像が人の目に見えるものかどうかすらはっきりしませんから。

 まあ、よくこんな映画作ったなとしか言えませんね。制作に6年かかったと監督が言ってましたが、そらそうでしょう。この作品はこの監督のデビュー3作目で、この映画がヤフーでは一番点数が低いんですが、逆に言うと、1作目と2作目は、監督が本気を出していなかったんでしょうね。こんな映画は老若男女問わず万人が評価する作品ではないでしょうからね。



「イケオジ」なんて言葉も生まれたそうですが、若い女性と年上男性の恋を描いた物語が流行っているそうで。
先生と生徒、上司と部下という設定は昔からあったものの、今の主流は中年以上の、年齢を重ねたからこその落ち着きを持った男性がメイン。女性も活躍の場を与えられるようになった昨今、男性にはただ頼りがいがあるだけではない、自分のすべてを包み込んで癒してくれるような包容力を求めているのかもしれません。
そして、女性向け漫画に出てくる中年男性は、概してイケメン。中年の不潔さなど微塵も感じさせない、絶対現実にはいないであろう、こんなオジサマに癒されたいと思うようなイケオジばかりです。
ところが女子高生がバイト先の店長に恋をするこの作品の原作は、青年向け雑誌に連載されていました。よって店長はイケメンではありません。加齢臭が漂ってきそうな、現実のここかしこに転がっているくたびれたオジサンです。
女性がイケオジと恋に落ちる妄想に浸りたいように、男性も女子高生と恋に落ちる妄想に浸りたい(に違いない)。しかしそれは一歩、いや半歩間違えれば犯罪にもなりえます。
このお話の落としどころはどこにあるのだろうと、無料の一巻だけを読んだ時から気になっていました。
結論から言えば、これ以上ない、素晴らしい余韻を残した物語だったと思います。
陸上に青春の日々を注いできたあきら。寡黙でクールな顔立ちからしばしば誤解も受ける彼女ですが、心の中には小さな恋心を秘めていました。相手はバイト先の店長である近藤。客にペコペコ頭を下げてばかりでバイト連中にも軽く見られがちなバツイチの中年男ですが、足に大怪我を負ったあきらは、病院帰りに立ち寄ったファミレスで近藤に受けたさりげないやさしさが忘れられず、彼を追ってそのお店のバイトになったのでした。
雨の中傘も差さず、ずぶぬれになりながら想いを告げたあきらの真剣な瞳に、動揺する近藤。
自分のような冴えない中年男なんてゴミのようにしか感じていないだろうと思っていた、眩しい女子高生から、本気の告白を受けたのです。にわかに信じられるはずがありません。
とまどいながらも、近藤はあきらの気持ちを受け止め、受け止めたうえで誠実に応えようとします。
そんな真面目で不器用な近藤だからこそ、あきらは恋をしたのかもしれません。
私もトシですから、どうしても近藤目線で物語を見てしまいます。
近藤は自分を好いてくれるあきらに好意を持ちますが、それは恋愛対象としてではなく、むしろ自分の失ってしまった若さを持った一種のあこがれとして見ているように思いました。
若さとはすべての可能性を秘めたエネルギーです。そしてその時期を逃してしまえば、二度と戻ってくることはありません。
彼にも若い頃、夢がありました。
その夢は今も彼の文机の上でとどまっています。仕事も家庭もうまくいかないのにあきらめきれない夢、しかし未練は断ち切れません。あきらが走ることへの未練を断ち切れないように。
彼がなれなかった小説家として成功している旧友のちひろは、悩む彼にこう言います。「未練ではなく、執着だ」と。
あきらめるべきことをあきらめきれないのは「未練」、好きなことややりたいことを成し遂げようとするのは「執着」。
ならば、この思いは間違ってなどいない。
彼に降り続いた長い雨がやんだ瞬間でした。
そしてあきらにも雨雲の晴れ間を指し示しました。彼はふたたび、彼女に手品を見せたのです。それが近藤の大人としてのふるまいでした。
ファミレスを「クビ」になり、ふたたび陸上部に戻ったあきら。そして近藤もまた、原稿用紙に向かいペンを走らせます。それぞれの場所で、それぞれの道を歩み始めたのです。
そして数ヶ月後。雨宿りを終えたふたりがふたたびめぐりあった晴れの日の昼下がり。澄みわたる青空が新しい時の、新しい関係の始まりを感じさせながら、物語は幕を閉じます。
小松菜奈の大きくてまっすぐなまなざしが印象的でした。すらりと伸びた足が健康的で走る姿も美しく、みずみずしさが強調されています。不愛想から一転、恋する人への笑顔のかわいらしさ、一途さゆえのあやうさなど、さまざまな表情を見せてくれました。
一方、近藤役の大泉洋はベストな起用だったと思います。カッコよすぎず、といって不細工すぎると画面映えしないという難しい役でしたが、あきらに対してもいやらしさや下心を感じさせない実直な近藤を魅力的に演じていました。臭そうだけれど不潔感なく演じられる中年俳優はなかなかいません。しかしラストシーンで車から降りてくるスーツ姿の近藤はちょっとカッコよく見えちゃいましたね。『ノーサイド・ゲーム』のせいでしょうか。
この作品は、想像していたような年の差ラブストーリーではなく、若い頃に味わった挫折の苦さを思い出させてくれる眩しい青春ものでした。そして中年になっても、自分らしく生きていくことは変わらず大切なことなのだと、そこだけは若者と共有できる部分なのだと感じさせてくれる、自分の曇っていた心も晴れにしてくれた、とても心地よい作品だったと思います。









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