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いかに寝て起くる朝に言ふことぞ昨日をこぞと今日をことしと(小大君)
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イギリスの映画雑誌で「落ち込む映画」ランキング堂々1位に輝いたこの作品。確かに、鑑賞後暗い気分になりました。
愚かにも薬物依存していく4人の過程が季節を追って描かれます。もちろんラストは破滅であり、魂の救済はありません。
もちろん、ただ快楽だけを求め薬物に手を出す若者たちに、救済の余地はないと思います。
しかし夫を亡くし孤独な自分の唯一の楽しみであるテレビを売るような放蕩息子をそれでも愛し、彼との美しい思い出である赤いドレスを着たいがためにダイエットを決意し、痩せる薬と信じて覚せい剤と知らずに服用してしまい依存症に陥ったサラにまで、あのようなバッドエンドしか用意されていないことには、背筋が寒くなりました。
危険を冒し大金を払いあるいは自らを犠牲に薬を手に入れ溺れるハリーやタイロン、マリオンと異なり、サラはいたって普通の淋しい独居老人です。
そんな平凡な一般市民にも、薬物の危険はすぐ隣にありました。そして人間は、易きに流れてしまうもの。狭い世界に生き思考力が衰えた老人ならばなおさらです。
薬物に溺れる心理はわからないし、わかりたくもありません。
ハリーやタイロンのように、最初はささいな好奇心からだったのかもしれません。マリオンのようにお金が欲しかった、サラのように労せず痩せたかった、理由はそれぞれでしょうが、いずれにしてもその一瞬の快楽は、やがて永遠の苦しみを齎します。人生の破滅を迎え、胎児のように丸まって眠りにつく4人。しかし時は戻りません。目が覚めてもそこは母の腕の中ではなく、苦しみの朝。
夢を現実にするために薬物に手を出した、それが分岐点となり、彼らの夢は永遠に夢のまま、死んだのです。
この作品のインパクトは、薬物の危険を世間に訴えるならば「ダメ。ゼッタイ。」よりよほど効果がありそうですが、もちろんそのメッセージのために作られた啓発映画ではないでしょう。
ストーリー自体は坂道を転がり落ちていくだけですが、純粋な芸術作品として、この作品の斬新な映像の連続には作り手の強い個性を感じました。薬物を摂取する際のカット割り、現実と妄想の境目が失われる瞬間、目と口のアップで示される快楽への執着心、表現方法が独特ながら各シーンのインパクトの強烈さは特筆すべきものがあります。
二度と観たくない作品ですが、切り取られた映像の数々は今でも瞼に焼きついています。これもドラッグのように、ある種の中毒性があったのかもしれません。








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Facebookの良さは、いまだにわかりません。
TwitterやInstagramも、かつてのmixiも、たぶん昔やっていた文通や交換日記よりオープンでお手軽なコミュニケーションツールなのでしょうけれど、それと同時に文通や交換日記にはない危険も孕んでいて、浅はかで短絡的な自分には向いていないと感じ、誘われても流していました。
Facebookを勧められた時も、ビジネスをやっているわけではないし本名登録なんて絶対に嫌だと即座に断りました。私の中で、ネット上は仮想空間であり、自分以外の何者かになるための場所というイメージでした。自分の名を冠しない解放感を味わうことがSNSのメリット、そして無責任ゆえに歯止めが効きにくいのがデメリットだと思っていました。
その価値観を180度ひっくり返したのがFacebookでした。
もはや若者たちにとって、ネットは仮想空間ではありません。大学や寮の肩書、物理的距離を消滅させてくれる場所であり、人脈と視野を広げるためのリアルなコミュニケーションツールのひとつとなっています。
この映画の中で、その世界はひとりの天才の指から生み出されます。
きっかけは、彼女にフラれたことでした。
フラれたことに納得いかない彼は、彼女の悪口をブログに書きつらね、おまけに大学のサーバーにハッキングし女学生の写真をネットにアップして容姿のランク付けをします。
そんな小さないたずらが、やがて世界最大規模のSNS・Facebookの誕生へとつながるのでした。
ただ、この作品で描かれているのは、「Facebookはいかにして生まれたか」ではなく、「最後まで孤独な主人公」です。
Facebookで巨万の富を築いた彼が結局得たものとは、何だったのでしょう。
ともにFacebookを立ち上げた親友は去り、彼女も戻ってはきませんでした。
誰とでも繋がれるコミュニケーションツールのFacebookを作り上げた彼が、本当に繋がりたい人とは繋がれない。そんなラストシーンで、物語は幕を閉じます。
マーク・ザッカーバーグの周囲から浮き立つ「天才」ぶり。脚本を詰め込むためという早口の台詞回しが、それをより強調していました。しかしこの映画の良いところは、天才を際立たせるために配置されがちな「普通」の脇役たちも、それぞれフラットに描かれているところです。
彼を振ったエリカも、親友を訴えたエドゥワルドも、スクールカーストの下層階級に一杯食わされたことに怒るボート部員も、それぞれがマークとコミュニケーションを持とうとし、そして失敗しました。マークは彼らの気持ちを理解しようとはしませんでした。理解してほしいと望みながら、理解されようとはしませんでした。
結局は、対話であろうが、「いいね!」であろうが、コミュニケーションが人と人との繋がりである以上、相互理解への努力が必要なのです。
マークがそのことに気づき、相手へ心を向ける時は訪れるのでしょうか。
私にとってFacebookは無縁の存在であり、それを作り上げた過程も現実のマーク・ザッカーバーグにもさして興味はありません。よって実際より大きく脚色されているというこの物語も、最初から「ひとりの天才の物語」というフィクションとして楽しめました。天才のお話はもう何作も観ていますが、結局天才とはどんな国のどんな時代の人間でも、結局孤独になってしまうものなのだなと切なくなってしまいます。











祖母の家には『雪の女王』の絵本がありました。
しかし序盤の男の子が女王に連れ去られる場面で怖くなり、読むのをやめてしまいました。
その記憶のせいで、私の中の『雪の女王』は「怖いお話」のイメージです。
そんな物語がディズニーの手にかかればアラ不思議、こんなハッピーエンドのラブストーリーに!
もっとも、あのおどろおどろしい『ラプンツェル』ですらキュートなプリンセスの活躍譚にできるのですから、たやすいことなのかもしれませんが。
とはいえこのお話、アンデルセンの『雪の女王』とはまるであらすじが異なります。カイもゲルダも出てきません。エルサを救い出そうとするアナがゲルダの役割なのかもしれませんが、雪の女王であるエルサは悪役ではありませんし、カイにあたる人物も出てきません。むしろエルサは幼い頃から自分の魔力をもてあまし、罪悪感に苛まれながら大好きな妹すらも遠ざけて孤独に生きてきました。ようやく自分の心を開放できたのが、自分の国から、妹から逃げ出し、みずから作り上げた氷の城でした。
あの超有名な『Let it go』は、てっきりラストで、エルサが自分の魔法を隠すことなくアナたちとともに生きることを決めた時の歌だとばかり思いこんでいました。まさかあんな序盤、しかもあんな悲しい展開で歌ったものだったとは…。
歌い終わりとともに氷の城の扉を閉めるエルサの行動はむしろ「ありのまま」の開放感とは正反対に閉鎖的ですし、それを救い出そうとするアナはむしろありのままであろうとするエルサを否定しているような…。
まあ、あまり深く考えないほうがいいのかな。
主人公たちにしあわせが訪れて、悪役にそれなりの罰が下って王子様とは両想い。オラフやスヴェンのかわいらしさ、氷のCG表現、すべてが最高のディズニークオリティでしたし、細かいことはおいておいて、観た後にハッピー気分になれるのがディズニー映画の醍醐味ですから。
ハンス王子が主人公の王子様でなかったことは意外な展開でした。クリストフが登場した時点で、「え、まさかハンスは!?」と察しがついたものの、そこからの落差は激しかったです。ラストの愛の正体は、オラフの「王子様とのキス」のミスリードが効いていました。
エルサの王子様が現れなかったので、鑑賞後は「エルサは『エリザベス』のように生涯独身の女王になるのだろうか。それはちょっとかわいそうだし、続編で誰か登場させてくれないかな」という思いを抱いたのですが、いろいろな考察サイトを見ていると、LGBTも含めて多様な価値観を認める現代社会の象徴として描かれている可能性もあることが指摘されていました。ナルホド、お城で王子様を待っていたはずのプリンセスがみずから行動を起こして王子様とともに冒険するようになっていったように、今度は王子様を持たないプリンセスも現れる時代になった、ということなのでしょうか。
いやはや、白馬に乗った王子様に憧れる昭和の少女漫画頭はもう古いということですね。











NHKドラマの出来が素晴らしかったので、映画はどんな仕上がりなのかと楽しみにしていたのですが、なかなかこれはこれで見ごたえある作品になっていました。
原作が長編なので二部作にしたのは良かったと思います。警察と記者クラブ、刑事部と警務部、地方と東京、それぞれの対立構造がきっちり描かれていて複雑な事情を抱える関係性がよくわかりました。ただそれを詳しく描いたがために、本題の64を模倣した誘拐事件以降のインパクトがやや薄かったように感じました。
その原因は、あくまで主人公である三上を中心に話を動かそうとしたところにあるのかもしれません。広報官である三上にとって、誘拐事件はあくまで部外者でした。追跡車両は誘拐犯を追うふりをしながら実は64事件の犯人を追っていたという真実がこの物語のクライマックスだったはずですが、三上が話の中心点である以上、そこからもう一段階話を進めなければいけなくなりました。この「原作とは違うラスト」と銘打ったエピソードは、原作とドラマを知っている者からすれば間延び感があり、はっきり言って蛇足でした。
刑事ばかりが注目されがちな警察ものにおいて、広報官という立ち位置から見た事件の描き方が新鮮で面白く、そして刑事出身でありながら広報官という職務に誇りを持って向き合っている三上が主人公だからこそ、この物語が魅力的になった理由です。犯人を追い詰め刑事に戻ってしまう三上では、部下や記者たちの信頼は勝ち取れないと思うのですが…。
まあ、佐藤浩市がカッコよかったからいいのですが。
そう、カッコよかったのです。ドラマのピエール瀧は、強面ゆえに広報官に抜擢され、父に似た娘が醜形恐怖症になるという設定がピッタリだった(よく見つけてきたなと思った)のですが、佐藤浩市ではやっぱりカッコいいし父親似を悲観するのは贅沢よ…。
それでも過去と家族と職務に真摯に向き合う三上の人物造形はドラマ版よりも深くて良かったです。
逆にドラマ版の方が良かったのは、広報室の面々でしょうか。広報がやりたくて警察官になる人はおそらくいないのではないかと思うのですが、その中でも諏訪は微妙な立ち位置です。血気盛んな記者たちを手なずけることのできる有能さと広報官への出世意欲をもった係長ですが、自分の仕事にプライドを持っているとともに、刑事から広報官になった三上を尊敬しながらも刑事部復帰への腰かけと見なしているのは、花形ではない広報室にコンプレックスを抱いているからのような気もします。そんな複雑な思いゆえに三上とは上司と部下以上の距離感は取らず、むしろみずからの感情からも距離を置くかのように新井浩文が演じた諏訪には独特の存在感がありました。三雲も蔵前もドラマ版の方がしっくりきました。あの見た目の一体感のなさが、警察官の組織ならではのように思ったのです。(しかし今思えばピエール瀧に新井浩文って…めったにないくらい良作だったのに…)
それはさておき、雨宮を演じた永瀬正敏や松岡役の三浦友和も熱演でした。雨宮の執念と喪失感には胸が痛くなりました。犯人役は緒方直人でしたがあえて狂気を見せず、案外事件を起こすのは普通の隣人であるという描き方は逆に恐怖感をあおられました。それだけに、やっぱり最後がな…。












公開当初から「後味が悪い」「二度と見たくない」という評判だけは耳にしていて、それでも高い評価(パルムドール)を受けたこの作品をいつか鑑賞してみたいと思いながら20年近く経ってしまいました。
確かに、後味は決して良いものではなかった。
けれど胸に残ったのは不快感や嫌悪感ではなく、どうしようもないやるせなさでした。
誰しも自分らしく生きていきたいと思う。
生まれや育ちで差別されるべきではない。
持病があっても子どもを産みたい。
自分がもっとも大切と思うものに日々を捧げたい。
自分はつねに自分に真摯でありたい。
しかし、世界が自己と他者によって成り立つ空間である限り、己の信ずる道を守り、信ずるままに生きることは、他者を傷つけ、また他者に傷つけられることのくり返し。
自分に真摯に生き自分の道を貫こうとしたセルマは、あらゆる他者に裏切られました。
セルマ親子を優しく見守っていたはずの大家には大事に貯めていた息子の手術代を盗まれ、あらぬ不貞を疑われ。
医者には不利な証言をされ。
送金先の父親と装っていたノヴィには裁判で父親ではないと決定打を打たれ。
そして、親友のキャシーには手術費を自分の弁護士費用にあてるよう諭され。
セルマにとって大切なのは息子のジーン。息子の目を治すために、セルマは必死で働いてきました。それをその目的以外に使われることなど、あってはならないことでした。だからこそ、そんな自分の思いを理解してくれないキャシーは、セルマにとっての裏切り者となりました。
辛い時、苦しい時、彼女を救ったのは友人たちではなく、彼女の内のみに存在する想像のミュージカル。セルマに寄り添おうとするキャシーもジェフも、彼女の世界の外でした。
しかしジーンが母親として必死で自分を守ろうとしてくれるセルマに対して愛を述べたり感謝したりする場面は、描かれてはいません。そのことにセルマが葛藤することもありません。
セルマのジーンに対する愛は、一方的なものでした。セルマの愛は、ジーンを通してジーンを守る自分自身に向けられていたのかもしれません。
またキャシーは、「なぜ病気が遺伝するとわかっていてジーンを産んだの」とセルマに問いかけます。キャシーにとってもっとも大切なのはセルマであって、ジーンではない。セルマにとってもっとも大切なのはジーンであることをわかっていながら、それでもセルマを思うあまり問わずにはいられませんでした。これもキャシーのセルマへの一方的な愛の姿です。
そして、己のために受け容れたはずの刑死を目の前に、セルマは我を失います。生への希求は人間としての本能であり、作品はそれを隠さず飾らず、生々しく描きます。
セルマは最期まで、自分に真摯でした。
最期まで彼女を支えたキャシーや刑務官の存在を世界の外に、ジーンへの愛で己を取り戻した彼女は、ジーンに対する愛を歌います。
ジーンに対する愛を歌う自分への愛を、歌いました。
しかし歌いあげることはできませんでした。
愛は、惜しみなく与えるものではなく奪うものと有島武郎は言いました。愛とは自己から他者へ向けて生まれる一方的な感情である以上、相互関係にはなりえないもの。愛する他者から奪ったもので成り立つ己を愛することで、人は人として生き、死んでいく。
最期まで自分への愛を貫き、自分に真摯に生きたセルマ。
もっともしあわせなはずの生き方が、その他者によって先を閉ざされることになろうとは。
自己と他者で形成されるこの世界を自分らしくまっとうするには、いったいどうすれば良いというのか。
死が訪れるその時まで、答えを探し続けなければならないのでしょうか。









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