公開当初から「後味が悪い」「二度と見たくない」という評判だけは耳にしていて、それでも高い評価(パルムドール)を受けたこの作品をいつか鑑賞してみたいと思いながら20年近く経ってしまいました。
確かに、後味は決して良いものではなかった。
けれど胸に残ったのは不快感や嫌悪感ではなく、どうしようもないやるせなさでした。
誰しも自分らしく生きていきたいと思う。
生まれや育ちで差別されるべきではない。
持病があっても子どもを産みたい。
自分がもっとも大切と思うものに日々を捧げたい。
自分はつねに自分に真摯でありたい。
しかし、世界が自己と他者によって成り立つ空間である限り、己の信ずる道を守り、信ずるままに生きることは、他者を傷つけ、また他者に傷つけられることのくり返し。
自分に真摯に生き自分の道を貫こうとしたセルマは、あらゆる他者に裏切られました。
セルマ親子を優しく見守っていたはずの大家には大事に貯めていた息子の手術代を盗まれ、あらぬ不貞を疑われ。
医者には不利な証言をされ。
送金先の父親と装っていたノヴィには裁判で父親ではないと決定打を打たれ。
そして、親友のキャシーには手術費を自分の弁護士費用にあてるよう諭され。
セルマにとって大切なのは息子のジーン。息子の目を治すために、セルマは必死で働いてきました。それをその目的以外に使われることなど、あってはならないことでした。だからこそ、そんな自分の思いを理解してくれないキャシーは、セルマにとっての裏切り者となりました。
辛い時、苦しい時、彼女を救ったのは友人たちではなく、彼女の内のみに存在する想像のミュージカル。セルマに寄り添おうとするキャシーもジェフも、彼女の世界の外でした。
しかしジーンが母親として必死で自分を守ろうとしてくれるセルマに対して愛を述べたり感謝したりする場面は、描かれてはいません。そのことにセルマが葛藤することもありません。
セルマのジーンに対する愛は、一方的なものでした。セルマの愛は、ジーンを通してジーンを守る自分自身に向けられていたのかもしれません。
またキャシーは、「なぜ病気が遺伝するとわかっていてジーンを産んだの」とセルマに問いかけます。キャシーにとってもっとも大切なのはセルマであって、ジーンではない。セルマにとってもっとも大切なのはジーンであることをわかっていながら、それでもセルマを思うあまり問わずにはいられませんでした。これもキャシーのセルマへの一方的な愛の姿です。
そして、己のために受け容れたはずの刑死を目の前に、セルマは我を失います。生への希求は人間としての本能であり、作品はそれを隠さず飾らず、生々しく描きます。
セルマは最期まで、自分に真摯でした。
最期まで彼女を支えたキャシーや刑務官の存在を世界の外に、ジーンへの愛で己を取り戻した彼女は、ジーンに対する愛を歌います。
ジーンに対する愛を歌う自分への愛を、歌いました。
しかし歌いあげることはできませんでした。
愛は、惜しみなく与えるものではなく奪うものと有島武郎は言いました。愛とは自己から他者へ向けて生まれる一方的な感情である以上、相互関係にはなりえないもの。愛する他者から奪ったもので成り立つ己を愛することで、人は人として生き、死んでいく。
最期まで自分への愛を貫き、自分に真摯に生きたセルマ。
もっともしあわせなはずの生き方が、その他者によって先を閉ざされることになろうとは。
自己と他者で形成されるこの世界を自分らしくまっとうするには、いったいどうすれば良いというのか。
死が訪れるその時まで、答えを探し続けなければならないのでしょうか。