グラミー賞歌手のノラ・ジョーンズをはじめ、ジュード・ロウ、ナタリー・ポートマン、レイチェル・ワイズという錚々たる俳優陣をそろえたウォン・カーウァイ監督作品。なんともオサレなポスターからオサレ系ラブストーリーを想像していましたが、ちょっと味わいが違っていました。 『恋する惑星』はたぶん観ていないと思うのですが、カラフルで奥行きのある映像は既視感があります。香港のネオン街のようです。 ひとつの恋を終わらせるため、旅に出たエリザベス。港でけなげに待つ女、という演歌のような価値観はもう古い。この作品で待つのは男。返信先のない手紙を受け取って、なおいっそう想いを募らせるばかり。 いっぽうNYから遠く離れたエリザベスは、旅先でさまざまな出逢いと経験を経て古い鍵を捨てる強さを手に入れていきます。 破れた恋は、ただ、相手に選ばれなかっただけ。 売れ残ったブルーベリーパイのように。 恋なんて一方通行なもの。中の意思はおかまいなしに、鍵があればいつでも外から開けられる。ただ、中にいる者がいつまでも開けられることを待っているとは限らない。そして知らないうちに、開かなくなっていることだってある。鍵の持ち主は、鍵が変わっていやしないか、びくびくしながら鍵穴に差し込むようになる。そしてそのうち、差し込む勇気さえ持てなくなってしまう。 でも、鍵は捨てられない。 恋なんていつだって一方通行で、自分勝手で、それなのに臆病で、厄介。 それでも人は恋することをやめられない。あの味を知ってしまったら。ブルーベリーパイの上でとろりとろけるアイスのように甘くて、ブルーベリーのように酸っぱくて、魅了されてやみつきになる。 食べる人のいないブルーベリーパイとともにエリザベスの帰りを待ち続けるジェレミー。彼もまた、捨てられない鍵を持っていました。そしてその鍵を捨てる勇気をくれたのはエリザベス。カフェ・クルーチの鍵を持たないエリザベスのために、いつも鍵を開けて待っていました。 一方通行だった恋が、交わる時。それはとてつもなく甘美で、色鮮やかで、美しい。 これは、なんでもない話。それぞれの恋が終わり、新しい恋が始まる、そんなありふれた話。 恋は太古からくり返されてきた人のいとなみ。 今もどこかで誰かが甘酸っぱくて美味しいブルーベリーパイを味わっている。 なんでもない日常のありふれた光景。 それでも恋は、美しい。 きっと恋に色をつけたら、こんなグラデーションになるのかもしれない。そんな映像と甘さにひたる、90分でした。 PR 朝ドラより先行して企画された作品ながら、公開がドラマより後になったことであまり評価は芳しくありません。 時間をかけて丁寧に説明を入れながら水木しげるの成功譚を描いたドラマに対し、この作品は見知らぬ男に嫁ぎ見知らぬ土地で暮らしとんでもない貧乏ととんでもない夫に振り回される妻の心模様の変化を紡いでいます。同じ原作を使いながらアプローチの手法は異なるのですが、結果的に比較されることになってしまったのはもったいない気がします。 水木しげる役の宮藤官九郎は、清潔感皆無の売れない漫画家をリアルに演じています。そういえばもともと俳優でした。実際クリエイターなんて変わり者でプライド高くて扱いにくいものであろうし、嫁をもらうことなんて背中を流してくれたりごはんを出してくれる助っ人くらいの感覚だったのかもしれませんし、布枝さんから見た水木先生も当初はこんな感じだったのでしょう。 思いやりのない夫、お金のない生活、プレッシャーをかけてくる姑、たまったツケ払いの追い立て、薄暗い部屋で絶望していく布枝。それでもある日仕事場で目にした原画によって、夫への見方が変わります。 それは戦地に重なる無数の死体。傷ついた兵士の顔からぽろっと取れた眼球。水木先生独特のとぼけたタッチではあるものの、その衝撃的な絵は布枝の心に肯定的な革命を起こしたのでした。 それからは夫の仕事を手伝うようになったり、原稿を届けに行ったり、プチ家出して迎えに来てもらったり、貧しくとも子を産む決意を宣言したりしながら、夫婦として心を通わせていきます。 そしてようやく、好きな題材を好きなように描ける機会がやってきます。できあがった原稿を届けに出かける茂、見送る布枝。観る者はその後の水木しげるを知っているだけに、ふたりにはいつもと同じ朝でも、それが転機となる出発であることを感じながら、物語は幕を閉じます。 昭和とは思えない風景であったり、少ないセリフに対する余白の多い映像であったり、水木しげるや妖怪を知らなければ楽しめなかったりするところはありましたが、想像とは異なりいかにも映画らしい映画でした。新婚の布枝のまわりに現れては徘徊して追い詰めていくイカル(姑)の幻影は不気味でしたし、人間なのか妖怪なのかよくわからない二階の住人(ドラマでも中森さんは妖怪風でしたが)、本当の妖怪に加えて一宿一飯のもてなしを与えた安井や街ですれ違う親子まで妖怪風である描写など、非常に面白い演出でした。 ただ水木しげるの今後の姿をクドカンがどのように演じるのか、売れてからの姿も見てみたかったですし、布枝の心理描写も展開の速さからやや薄く感じました。やはりふたりの長い道のりは、ドラマでじっくり描くほうが合っていたのかもしれません。 韓流ブームの真っただ中に公開されたこの作品。当時はかなり話題になっていましたが、13年が経ってブームも下火となり、日韓関係においてあまり好ましくない報道もされる中、政治的なことにはかかわりない庶民は単なるパニック映画のひとつとして鑑賞しました。 パニックものにはつきものでもある強引な展開もありましたが、『殺人の追憶』や『母なる証明』で高い評価を受けているポン・ジュノ監督とあって、全体的に見ごたえある作品になっていました。 ただ、大きな印象としては、「ハリウッドや日本映画とは、ずいぶん趣が異なるな」ということ。 米軍が漢江に廃棄した毒薬によって生まれたバケモノ。多くの人びとがレジャーに興じる川べりに突如現れたそれによって、穏やかな午後は一変します。 主人公は店先で午睡を貪るわ客に提供するイカの足を失敬するわ、冒頭から徹底してダメ人間であることが強調されていたカンドゥ。怪物が現れた時、カンドゥは米軍の若者とともに標識をかついで戦います。普段はダメ人間だけれど実は勇敢な父親であった…とヒーローに変貌するのかと思いきや、そこはやっぱりひとくせあります。娘と勘違いして別の子の手を引いてしまい、結果娘は怪物に攫われてしまうのです。絶望にくれ、弟妹たちに責められながらも、やっぱり眠りこけるカンドゥ。ますます軽蔑の念を強くする弟妹に対して、カンドゥの父親だけは幼少期にきちんと育てなかった責任から彼をかばいますが、子どもたちの目の前で怪物によって無残に命を奪われます。一緒に戦う主人公の仲間たちは死なないというお約束をいとも簡単に破る展開。そしてさらにラストでは、下水道の地下で必死に生き延びてきた娘すら、救われることなく死んでしまうのです。 娘だけはいつまでたっても食われないので、百パーセント助かる結末だと思っていました。『トンマッコルへようこそ』でも予想を裏切られるラストが待っていましたが、これはもう感覚の違いなのかもしれません。 そして、娘は失いましたが、娘の最期を知る元ホームレスの少年とともに、カンドゥは誰も寄り付かなくなったであろう漢江の川べりに住み続けます。いつまた現れるやもしれぬ怪物に、常に目を光らせているのです。そして力を合わせたはずの弟妹の姿はありません。やっぱり心は離れたままなのか、それとも全身に浴びた薬剤で命を落としたのか…。 ただ救われた思いになるのは、暖かい部屋で温かいごはんを食べカンドゥに甘える少年。もう飢えることも盗みをすることもないであろう少年の姿に、虚しさだけが残るのではないラストになっています。 事の発端は、米軍が漢江に廃棄した毒薬。劇中、米軍は徹底して悪役に描かれます。実際に米軍がホルムアルデヒドを漢江に流した事件があったそうですし、最後に散布された化学兵器の名前はベトナム戦争で使用された枯葉剤(エージェント・オレンジ)にひっかけられているのだとか。監督の信念すら感じる作りです。 ただそういった裏面に気づかなくても、じゅうぶん面白い作品になっています。 『硫黄島からの手紙』を見て早や12年…やっと第一部のこの作品を鑑賞しました。 硫黄島の擂鉢山の頂上に星条旗を立てた6人の兵士の写真。新聞の一面に飾られたそれにより国民の士気が高まったと知るや、国家は財政の立て直しに彼ら「英雄」を利用することを画策します。 顔も名前も知らず憎み合ってもいない者たちの殺し合いが戦争の本質であることはもちろんですが、雨霰と降り注ぐ銃弾は国家のお金そのもので、銃後の者たちが金策に頭を悩ませるのもまた戦争の裏にある一面です。国家も国民も疲弊していく中、もう一度国威発揚させ国債を買ってもらうにはどうしたら良いのか――そんなさなかに現れたのが、星条旗を立てた男たちでした。 物語は父親の過去を調べる息子の現代に始まり、「英雄」の帰国フィーバーから国債アピール行脚と、硫黄島での日々が交互に描かれます。 もてはやされ、茶番劇のようなイベントに駆り出され、英雄扱いされればされるほど、彼らは心をすりへらしていきます。敵も味方も流した血の色をのぞけば、星条旗さえ無彩色のようだった戦地から帰国すれば、そこは光や音楽に満ちていて、料理も酒もあふれていました。銃弾の嵐の中を駆けていた戦地では想像もしなかったことでした。ただ死ななかっただけなのに――あの地で命を散らしていたのは、自分だったかもしれないのに。 真の英雄はいったい誰なのか。高い場所からの声は国威発揚の装置に過ぎず、それに込められた真意まで誰も思い至ることはありませんでした。語れば語るほど、真実と虚像は乖離していきました。 やがて戦争は終わり、「英雄」もその役割を終えます。彼らはひっそりと大国の隅で生き、そして家族に看取られ、あるいは孤独に死んでいきました。 戦争という時代に弄ばれた幾つもの命。生き延びて寿命を終えた者、母国に帰ることなく死んだ者、戦地ですらない海上に置き捨てられた者。そのひとつひとつが、はっきりとした手触りをもって描かれていました。 決して感傷には走りません。勝ち負けと善悪をないまぜにもしません。とりわけ非戦を唱えるわけでもありません。ただ淡々と、硬質な筆致でイーストウッド監督は戦争を描きます。 受け取り方は観る者によってさまざまでしょう。ただ、エンドロールの写真のように、彼らは生き生きと生きていた。その未来が抗いようのない時代の波にもまれ、断ち切られることなど、あってはならないはずなのに。生きた者にも死んだ者にも理不尽な運命を与えた戦争がいかに非道なものであるか、あらためて強く実感しました。 アカデミー脚本賞を受賞したそうですが、鑑賞直後は「なぜ、この作品が…?」でした。 どんでん返しはありませんし、ホラーというほど怖くもありません。 ただ終わってからあれこれ反芻してみると、リアルタイムではなんの気なしに聞き流していたタイトルのセリフが、実は深い意味を持っていたことに気づきます。 そして、監督がこの作品にこめたモノが奥深いところにあるようにも感じました。 監督のこめたモノーー実のところ、それはあるのかもしれないし、ないのかもしれません。 「ある」と思うこと自体、もしかしたら眉をひそめた登場人物と同じ意識なのかもしれません。 彼女が彼氏を実家に連れていく。そんなありふれたおおごとから物語は始まります。そしてアメリカでは、彼女・ローズが白人で彼氏・クリスが黒人であればなおさら、周りを巻きこんでの一大事となるようです。 やや構えながら乗り込んだクリスですが、思いのほか丁重なもてなしを受けます。ただ気になるのは男女の使用人が黒人であること、さらに少し異質なこと。そしてなぜか参加することになった彼女の亡き祖父にまつわるパーティー。白人の参加者たちはクリスに対してフレンドリーに接しますが、かける言葉のひとつひとつが魚の小骨のようにひっかかる。 「すごい、すごいねー、さすがだねー。いや自分はできないよー。すごいよー」 手放しで誉められているようでいて、なんか馬鹿にされている…そう感じてしまう手放しの賛辞。 「自分、ホワイトだから? 君はブラックだから身体能力すごいんでしょ。タイガー・ウッズみたいにできるんでしょ。ほんとすごいねー。ホワイトにはできないからねー」 ここまで来ると、賛辞は侮蔑に色を変えます。 「ブラックは、自分たち=ホワイトとは違う特別な生き物」、それはすなわち、区別であり差別であり。 「ブラック」を特別視するその一団の中に「日本人=いわゆるイエロー」がいたのも、もしかしたら皮肉だったのでしょうか。 うんざりした愛想笑いのクリスに胸がチクチクしました。 そしてラスト。最初にチラ見せされる、アメリカ社会に根づくブラックへの差別意識が、最後までアクセントを効かせるのか…と思いきや、そこはさすがに反対意見があってカットされたようです。ただこの展開では、そちらのラストの方が良いような気がしました。あまりにも救いがないオチだったとしても。 シド(犬)と友人の存在がちょっとした癒しで、良かったです。 |
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