『硫黄島からの手紙』を見て早や12年…やっと第一部のこの作品を鑑賞しました。 硫黄島の擂鉢山の頂上に星条旗を立てた6人の兵士の写真。新聞の一面に飾られたそれにより国民の士気が高まったと知るや、国家は財政の立て直しに彼ら「英雄」を利用することを画策します。 顔も名前も知らず憎み合ってもいない者たちの殺し合いが戦争の本質であることはもちろんですが、雨霰と降り注ぐ銃弾は国家のお金そのもので、銃後の者たちが金策に頭を悩ませるのもまた戦争の裏にある一面です。国家も国民も疲弊していく中、もう一度国威発揚させ国債を買ってもらうにはどうしたら良いのか――そんなさなかに現れたのが、星条旗を立てた男たちでした。 物語は父親の過去を調べる息子の現代に始まり、「英雄」の帰国フィーバーから国債アピール行脚と、硫黄島での日々が交互に描かれます。 もてはやされ、茶番劇のようなイベントに駆り出され、英雄扱いされればされるほど、彼らは心をすりへらしていきます。敵も味方も流した血の色をのぞけば、星条旗さえ無彩色のようだった戦地から帰国すれば、そこは光や音楽に満ちていて、料理も酒もあふれていました。銃弾の嵐の中を駆けていた戦地では想像もしなかったことでした。ただ死ななかっただけなのに――あの地で命を散らしていたのは、自分だったかもしれないのに。 真の英雄はいったい誰なのか。高い場所からの声は国威発揚の装置に過ぎず、それに込められた真意まで誰も思い至ることはありませんでした。語れば語るほど、真実と虚像は乖離していきました。 やがて戦争は終わり、「英雄」もその役割を終えます。彼らはひっそりと大国の隅で生き、そして家族に看取られ、あるいは孤独に死んでいきました。 戦争という時代に弄ばれた幾つもの命。生き延びて寿命を終えた者、母国に帰ることなく死んだ者、戦地ですらない海上に置き捨てられた者。そのひとつひとつが、はっきりとした手触りをもって描かれていました。 決して感傷には走りません。勝ち負けと善悪をないまぜにもしません。とりわけ非戦を唱えるわけでもありません。ただ淡々と、硬質な筆致でイーストウッド監督は戦争を描きます。 受け取り方は観る者によってさまざまでしょう。ただ、エンドロールの写真のように、彼らは生き生きと生きていた。その未来が抗いようのない時代の波にもまれ、断ち切られることなど、あってはならないはずなのに。生きた者にも死んだ者にも理不尽な運命を与えた戦争がいかに非道なものであるか、あらためて強く実感しました。 PR |
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