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いかに寝て起くる朝に言ふことぞ昨日をこぞと今日をことしと(小大君)
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芸術とは、人生を切り取って表現するものだと感じています。絵画でも音楽でも、もちろん映画でも、そこには命の輝きがあります。ただ、キャンバスやフィルムに映し出されるのは凝縮された瞬間であり、わずかな空間にすべてを詰め込むのは不可能です。
そう思っていました。この映画を観るまでは。
恋と友情。家族と夢。挫折と希望。闘争と団結。嘘と優しさ。笑顔と涙。
170分の中には、人生のすべてが詰まっていました。
物語の流れはシンプルです。エンジニアになるべく家族の期待を背負って難関工科大に進学したファルハーンとラージュー。しかし成績は思わしくありません。彼らのルームメイトであるランチョーは天才肌ですが学長に楯突く問題児。親友となった三人の学生生活と、卒業後行方知れずとなったランチョーの秘密が明らかになっていく現代劇が交互に織りなされます。
日本にもかつて受験戦争という社会現象がありましたが、インドも苛烈な競争社会にあるようです。学生たちの生存競争は、時に命をも脅かします。ですから、挫折の末にみずから命を絶った先輩も、将来と友情の板ばさみに苦しみ窓から身を投げたラージューも、彼らの選択は決して我々が理解しえないものではありません。そして、友人とバカなことをしたり、家族を大切に思ったり、自分の夢に葛藤したり、学生ならではの日常とみずみずしい感情は誰しもが共感できるものであり、病室でラージューの誕生日を祝ったり出産の迫るモナのために電気を集めたりする場面では、自分も仲間のひとりになったような気分になれました。
コメディチックな展開に隠すように序盤から綿密に張られた伏線は、中盤から丁寧かつ痛快に回収され、再会した3人の上に広がる突き抜けた青い空のように爽快な気持ちでエンドロールを迎えました。
そしてこの映画の素晴らしいところは、決してランチョーが悪役の学長をやっつけこらしめ完全勝者になるわけではないことです。学長には学長の思いがあり、娘を思う愛がある。ランチョーは最後の最後で、自分の知らなかったことを学長から学べたのだと思います。
中年ながら学生を演じた俳優たちの演技、インド映画ならではの歌とダンスもさりながら、字幕の日本語のセンスも素晴らしかったです。
人生って素晴らしい。
映画って素晴らしい。
久々に、このシンプルな感想に立ち返りました。
”Aal Izz Well”、何かあればついついこの言葉をつぶやいてしまいます。







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ガッキーがかわいすぎる――このひとことにつきる!
と、ガッキー観るたび書いているような気がするのですが、ホントなんでこんなかわいいのかね。ガッキーを前にしてはさすがの広末涼子も霞んで見えます。しかもこの映画、OL・チア・ジャージ・ユニフォームと、あらゆるガッキーのコスプレ姿を堪能できます。
…って、どうしてガッキー相手だとこうオヤジ目線になってしまうのでしょうか。
かつて天才卓球少女と称された多満子。卓球から足を洗い普通のOLとして過ごしていましたが、自分を裏切った卓球界のエース相手に一泡吹かせてやるため、ふたたびラケットを手に、元プロボクサーの萩原ととともに全日本選手権の混合ダブルス戦に挑みます。
脚本が古沢良太だったので期待していましたが、らしさはごくごく少なく、スポ根+恋愛+予定調和のオーソドックスな展開でした。しかしその足りない部分を補ってあまりあるのが豪華すぎるキャスト陣。
対戦相手として登場する水谷隼や石川佳純をはじめとした現役卓球選手が贅沢感満載なのはもちろんですが、元ヤン広末だけでなく、回想シーンしか出てこないのに迫力満点の鬼母真木よう子や、ばっちりメイクアスリートの典型的魔性の女永野芽郁も、そのなりきりぶりには圧倒されました。しかしなんといっても蒼井優。行きつけの中華屋の女性店員で、実は卓球の強化選手だったほどの実力者で、主人公を鍛える鬼コーチ…という役割ですが、テンプレ的中国人のセリフ回しも熱血すぎる卓球シーンも、とにかく随所で主役を食ってしまうほどの迫力でした。
つまり、ガッキーと瑛太のインパクトはすこぶる弱い。最悪の出逢いから恋仲という王道展開、うまいこと右左の組み合わせと、相性バッチリのはずなのですが、どうもふたりの絵面がピンときませんでした。
寝っ転がっておやつ食べながら気楽に観る分には最適の作品です。










1954年に公開された『ゴジラ』はもちろん、シリーズ27作どれも観たことがありません。ただゴジラが水爆実験によって現れたもの、すなわちゴジラそのものが反核のメッセージであることはなんとなく知っていました。戦後10年経たぬ時代に作られた怪獣映画によって得る恐怖感は、はじめて目にする怪獣ゴジラという存在以上に、死や破壊、そして放射能といった戦争を想起するキーワードによって呼び起こされたところが多かったのではないかと想像します。
しかし時代は変わり、戦後は遠くなりました。私がものごころついた時には、すでにゴジラは「大きい」「強い」を意味するニックネームでした。ゴジラ作品もなんとなく特撮パニック映画の印象が強く、今まで興味を持つことはありませんでした。
この映画を観たのも、直前に「ハセヒロの『早う入れ』砲に撃たれたから」という至極不純な動機からです。
ざんばら髪の鈍感十兵衛ハセヒロも素敵ですが、パリッとスーツの政治家ハセヒロもカッコよかったです。
…ですが、途中からハセヒロは正直どうでもよくなっていました。
スピーディな展開と迫力あるCG、リアリティを感じる政府関係の描写で、序盤からすぐ物語に惹きこまれました。よくある特撮映画のひとつと侮って、地上波放送もスルーしていた自分を恥じたい。
映画冒頭、ゴジラの出現によって逆流した河川、押し潰される車、逃げまどう人びと。これと同じ映像を見たことがあります。我々は戦争を知りませんが、3.11に味わわされた本能的な恐怖は知っています。とうてい太刀打ちできない圧倒的な破壊力を前にどうしようもなく無力を感じたあの瞬間を、誰もが今でもはっきりと憶えているのです。そして次々と起きる予想を遥かに超えた事態、官邸の動揺と混乱を隠し切れない記者会見、押し迫る海外からのプレッシャー。既視感ある映像の数々により、SFのはずの世界観は、いつの間にかテレビ中継のように現実のものとなって迫ってきました。
庵野秀明監督だけあって、テロップの明朝体や作戦名、ゴジラの形態変化はエヴァンゲリオンを思い出しました。また、さまざまな人間が集う災害対策本部はネルフのようです。未知の生物と戦うという点ではエヴァも同じです。
しかし日本政府にはエヴァンゲリオンという架空の戦闘機はありません。現実の彼らが戦うには、法律、縦割り、アメリカなどなど、ゴジラにたどりつくまでにさまざまな壁を乗り越えなければなりません。規律を守ることを是とする日本において、それらすべてをたやすく飛び越えて世界を救うスーパーヒーローはもちろんいませんから、公務員も民間企業も研究者も一丸となって、それぞれがそれぞれの役割に黙々と徹し、実直に、かつ迅速に壁をひとつずつ壊しながら、確実にゴールを目指します。それは日本人にしか導けない道でした。
そしてたどりついた、ヤシオリ作戦。ゴジラは凍結され、核兵器の使用をまぬがれた世界は平穏を取り戻します。特撮映画らしい、ハッピーエンドのはずでした。しかし『ゴジラ』は決してそんな安易な決着を許しません。凍結したゴジラの尻尾の先端が大写しになるラストカット。そこには、今にも飛び立とうとしている幾つもの人型がありました。これは、ゴジラの分裂を食い止めたという勝利の証なのか、それともまた新たな悪夢がこれから始まろうとしている示唆なのか…。明確なピリオドを打たずあれこれ考察の余地を残すところも、実に庵野監督らしいと感じます。
もちろん、「出来すぎ」な部分やカヨコのような非現実的な女性キャラも登場しますが、これはあくまで特撮映画であることを考えれば許容範囲の部類です。
被爆国である日本だからこそ生まれた『ゴジラ』。そして震災を経験しなければ響かなかったであろう『シン・ゴジラ』。ゴジラはいつも、日本という国そのものを象徴してきたのかもしれません。だからこそ、ゴジラは65年もの間日本人の心を惹きつけてやまない唯一無二のキャラクターとなりえたのだろうとようやく理解できたように思います。








私はゲームにほとんど興味がありません。家には腐るほどありますが、自分がすることはほとんどありません。たまにハマるのもパズルものやアドベンチャーやアクションで、いわゆるRPGに手を出したことはありません。理由はひとつ、面倒だからです。たくさんある呪文やプレーヤーの特性を憶えるのもあっちこっち行かされるのも敵を倒さないとレベル上がらないのも、ただただすべてがメンドクサイのです。
よって、ドラクエシリーズも一作たりとも挑んだことがありません。
ドラクエ3が発売された時、当時読んでいた雑誌に何ページもカラーで特集されていて、「そんなスゴイことなのか?」とびっくりしたものです(記憶が確かなら学研の『学習』だったような…いやいくらなんでも学研でゲームは取り扱わないか…?)。
もちろん、鳥山明のキャラクター造形は素晴らしいと思いますし、ストーリーもクリアまでの行程も凝っているのでしょう。何よりここまで長くの間人びとの心を惹きつけるのですから、歴史に残る名作であることは間違いないと思います。
そして我が家にもひとりドラクエフリークがいます。結婚してウン年、「それ何度目よ?」と言いたくなるほど同じゲームをプレイし、少しずつドラクエグッズを買い集めては満足そうに眺めています。
そして飽きるほど聞かされたのが、ドラクエ5の話です。
「こんなに練られたストーリーはない」「主人公は子どもの頃奴隷で、大人になってからは石にされるという悲惨な運命」「しかも天空の剣が装備できず勇者でないことが途中でわかる」「実は息子が勇者」「主人公の結婚相手が天空の勇者の血をひいていた」「結婚相手は幼なじみのビアンカか、金持ちの娘のフローラか選ぶことができる」「どちらを選んでもクリアはできるが、皆それぞれに信念をもって嫁を選ぶのだ。だからこのビアンカフローラ論争は永遠に解決することはない」
興味のない人間からすれば「(‘ε’)… フーン」としか返しようのない話題なのですが、世の中には彼のように、あるいは彼以上に熱量を持ってドラクエを語る人間が大勢いるわけですから、そんなドラクエファンを相手に、ましてや思い入れの強いファンがもっとも多い(らしい)ドラクエ5を題材に映画を作るなんて制作陣はチャレンジャーだなあと思っていましたし、賛否両論…というよりは圧倒的に否の意見が多い結果になっているのもやむなしだとも感じていました。たとえば人気漫画が実写化されると、必ずといっていいほど「キャストがイメージと違う」「あのエピソードが入っていない」という意見が出てくるように、ファンが多ければ多いほどそういう否定的な声が強調されてしまうからです。
この作品の評価が低いのも、「映画である以上妻はひとりで、ビアンカとフローラの選ばれなかった方のファンは悔しいだろうし、上映時間からしてエピソードもかなり削っているから、ゲームのストーリーに魅せられた人たちにとっては物足りないものになっているからだろう」…などと想像していました。
…いや、予想の遥か上を超えていました。もうビックリです。
確かにストーリーは駆け足でした。ドラクエの思い出を熱く語られるたび右から左へ受け流していた我が身にとっては、この時も横でドラクエフリークが先の展開をバラし続けてくれなければきっと早急な場面転換についていけなかったでしょう。フローラの美貌にメロメロだったくせにいきなり「やっぱビアンカ」となったことについては、ビアンカと一緒に敵を倒したあとですから、まあまあ許容範囲です。本編ではいらない子だったらしいヘンリー王子とブオーンが最後に主人公たちを助けに来るという展開は、映画らしくて良かったと思いますし、もちろんCGの技術は素晴らしかったです。
…そこで終わっていたら、良かったのに。
いったい何を思ってあんなラストにしたのでしょうか。「ラスボスを倒してエンドロール」だと、ただゲームをなぞっているだけだから映画にする意味ない、とでも考えて頭をひねってみたのでしょうか。ドラクエファンが怒るのも理解できます。
しかし、ドラクエに何の思い入れもない自分にとっても、あのエンディングは「ナシ」です。
私たちが子どもの頃、ゲームは否定されるべきものでした。「ゲームばかりしていると馬鹿になる」というのは大人の常套句でしたし、ゲーム=引きこもり=犯罪者予備軍という見解も一般的にありました。その否定する大人たちの象徴がミルドラス(ウイルス)なのでしょう。つまり最後の敵は「高圧的にゲームを否定した大人たち」であり、「ゲームにのめりこんだ子ども」が勝利するという図式です。
プレーヤーたちの思い出は肯定されたことになります。
しかし、それこそが「高圧的」なのではないでしょうか。
RPGはスタートとエンドは決まっていても、クリアまでの道中は選択肢によって変わります。ドラクエ5の思い出は、プレーヤーの数だけ存在します。だからこそのユアストーリーであり、ひとつずつが尊いものなのです。思い出は、誰かに否定されたり肯定されたりするものではありません。それぞれがそれぞれの胸でそれぞれ色鮮やかに輝き続けていれば良いものなのです。
それをわざわざ胸の奥に手をつっこんで無粋にもひっぱり出して、「否定されて辛かったろう。君は間違ってないよ。ゲームは楽しいものなんだよ」と大上段から言い放つや、放り投げて返すかのようなエンディング。
ひっぱり出した方は「良いことをした」と満足しているかもしれませんが、出された方にとっては「よけいなお世話」以外のなにものでもありません。
この映画は、ラストのせいでまったくもって「よけいな時間」になってしまいました。

















オリジナルの『ジュマンジ』は観たことありませんが、知らずとも楽しめる娯楽作品でした。
落ちこぼれ仲間が異世界にトリップして、力を合わせて試練を乗り越え、少し成長して元の世界に戻る…まるで『ドラえもん』映画版のような、小学生の頃こんな話をよく読んだような気がします。そしてそこにちょっと恋バナが絡めば、ますますあこがれて惹きこまれたものです。
トリップ先では自分が選んだゲームのキャラになってしまっているのも面白い趣向です。しかも、現実の自分とはまるで異なる姿。陰キャのゲームオタクは戦士のような冒険家に、アメフト部のジャイアンは小柄な動物学者に、スマホ依存のバッドガールはメガネデブの地図学者に、理屈屋の優等生は露出度の高い武闘家美女に。
別人ですからもちろん違う俳優が演じるわけですが、ちゃんと現実世界の性格を引き継いで演じているのがまた面白い。筋骨隆々なのにヘタレだったり、中年オヤジなのに女子高生だったり、別人のはずなのにきちんと元の人格が垣間見えるのです。中年オヤジ(バッドガール)がセクシー美女(優等生)に男を籠絡するテクニックを伝授する場面などは、笑いをこらえきれませんでした。
ゲームにつきものであるそれぞれの特技と限りあるライフを駆使しながら、ファンタジー映画ならではの壮大な世界の上で派手なアクションがくり広げられます。そして最後はしんみり、ほっこり。
子どもはもちろん、大人も子どもに戻った気で楽しめる、痛快な作品でした。
しかし、せっかく戻ってきたにもかかわらず、次回作ではまたトリップしてしまう模様。こんな怖い目に遭っても、こりないんですね…。







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