私はゲームにほとんど興味がありません。家には腐るほどありますが、自分がすることはほとんどありません。たまにハマるのもパズルものやアドベンチャーやアクションで、いわゆるRPGに手を出したことはありません。理由はひとつ、面倒だからです。たくさんある呪文やプレーヤーの特性を憶えるのもあっちこっち行かされるのも敵を倒さないとレベル上がらないのも、ただただすべてがメンドクサイのです。
よって、ドラクエシリーズも一作たりとも挑んだことがありません。
ドラクエ3が発売された時、当時読んでいた雑誌に何ページもカラーで特集されていて、「そんなスゴイことなのか?」とびっくりしたものです(記憶が確かなら学研の『学習』だったような…いやいくらなんでも学研でゲームは取り扱わないか…?)。
もちろん、鳥山明のキャラクター造形は素晴らしいと思いますし、ストーリーもクリアまでの行程も凝っているのでしょう。何よりここまで長くの間人びとの心を惹きつけるのですから、歴史に残る名作であることは間違いないと思います。
そして我が家にもひとりドラクエフリークがいます。結婚してウン年、「それ何度目よ?」と言いたくなるほど同じゲームをプレイし、少しずつドラクエグッズを買い集めては満足そうに眺めています。
そして飽きるほど聞かされたのが、ドラクエ5の話です。
「こんなに練られたストーリーはない」「主人公は子どもの頃奴隷で、大人になってからは石にされるという悲惨な運命」「しかも天空の剣が装備できず勇者でないことが途中でわかる」「実は息子が勇者」「主人公の結婚相手が天空の勇者の血をひいていた」「結婚相手は幼なじみのビアンカか、金持ちの娘のフローラか選ぶことができる」「どちらを選んでもクリアはできるが、皆それぞれに信念をもって嫁を選ぶのだ。だからこのビアンカフローラ論争は永遠に解決することはない」
興味のない人間からすれば「(‘ε’)… フーン」としか返しようのない話題なのですが、世の中には彼のように、あるいは彼以上に熱量を持ってドラクエを語る人間が大勢いるわけですから、そんなドラクエファンを相手に、ましてや思い入れの強いファンがもっとも多い(らしい)ドラクエ5を題材に映画を作るなんて制作陣はチャレンジャーだなあと思っていましたし、賛否両論…というよりは圧倒的に否の意見が多い結果になっているのもやむなしだとも感じていました。たとえば人気漫画が実写化されると、必ずといっていいほど「キャストがイメージと違う」「あのエピソードが入っていない」という意見が出てくるように、ファンが多ければ多いほどそういう否定的な声が強調されてしまうからです。
この作品の評価が低いのも、「映画である以上妻はひとりで、ビアンカとフローラの選ばれなかった方のファンは悔しいだろうし、上映時間からしてエピソードもかなり削っているから、ゲームのストーリーに魅せられた人たちにとっては物足りないものになっているからだろう」…などと想像していました。
…いや、予想の遥か上を超えていました。もうビックリです。
確かにストーリーは駆け足でした。ドラクエの思い出を熱く語られるたび右から左へ受け流していた我が身にとっては、この時も横でドラクエフリークが先の展開をバラし続けてくれなければきっと早急な場面転換についていけなかったでしょう。フローラの美貌にメロメロだったくせにいきなり「やっぱビアンカ」となったことについては、ビアンカと一緒に敵を倒したあとですから、まあまあ許容範囲です。本編ではいらない子だったらしいヘンリー王子とブオーンが最後に主人公たちを助けに来るという展開は、映画らしくて良かったと思いますし、もちろんCGの技術は素晴らしかったです。
…そこで終わっていたら、良かったのに。
いったい何を思ってあんなラストにしたのでしょうか。「ラスボスを倒してエンドロール」だと、ただゲームをなぞっているだけだから映画にする意味ない、とでも考えて頭をひねってみたのでしょうか。ドラクエファンが怒るのも理解できます。
しかし、ドラクエに何の思い入れもない自分にとっても、あのエンディングは「ナシ」です。
私たちが子どもの頃、ゲームは否定されるべきものでした。「ゲームばかりしていると馬鹿になる」というのは大人の常套句でしたし、ゲーム=引きこもり=犯罪者予備軍という見解も一般的にありました。その否定する大人たちの象徴がミルドラス(ウイルス)なのでしょう。つまり最後の敵は「高圧的にゲームを否定した大人たち」であり、「ゲームにのめりこんだ子ども」が勝利するという図式です。
プレーヤーたちの思い出は肯定されたことになります。
しかし、それこそが「高圧的」なのではないでしょうか。
RPGはスタートとエンドは決まっていても、クリアまでの道中は選択肢によって変わります。ドラクエ5の思い出は、プレーヤーの数だけ存在します。だからこそのユアストーリーであり、ひとつずつが尊いものなのです。思い出は、誰かに否定されたり肯定されたりするものではありません。それぞれがそれぞれの胸でそれぞれ色鮮やかに輝き続けていれば良いものなのです。
それをわざわざ胸の奥に手をつっこんで無粋にもひっぱり出して、「否定されて辛かったろう。君は間違ってないよ。ゲームは楽しいものなんだよ」と大上段から言い放つや、放り投げて返すかのようなエンディング。
ひっぱり出した方は「良いことをした」と満足しているかもしれませんが、出された方にとっては「よけいなお世話」以外のなにものでもありません。
この映画は、ラストのせいでまったくもって「よけいな時間」になってしまいました。
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