1954年に公開された『ゴジラ』はもちろん、シリーズ27作どれも観たことがありません。ただゴジラが水爆実験によって現れたもの、すなわちゴジラそのものが反核のメッセージであることはなんとなく知っていました。戦後10年経たぬ時代に作られた怪獣映画によって得る恐怖感は、はじめて目にする怪獣ゴジラという存在以上に、死や破壊、そして放射能といった戦争を想起するキーワードによって呼び起こされたところが多かったのではないかと想像します。
しかし時代は変わり、戦後は遠くなりました。私がものごころついた時には、すでにゴジラは「大きい」「強い」を意味するニックネームでした。ゴジラ作品もなんとなく特撮パニック映画の印象が強く、今まで興味を持つことはありませんでした。
この映画を観たのも、直前に「ハセヒロの『早う入れ』砲に撃たれたから」という至極不純な動機からです。
ざんばら髪の鈍感十兵衛ハセヒロも素敵ですが、パリッとスーツの政治家ハセヒロもカッコよかったです。
…ですが、途中からハセヒロは正直どうでもよくなっていました。
スピーディな展開と迫力あるCG、リアリティを感じる政府関係の描写で、序盤からすぐ物語に惹きこまれました。よくある特撮映画のひとつと侮って、地上波放送もスルーしていた自分を恥じたい。
映画冒頭、ゴジラの出現によって逆流した河川、押し潰される車、逃げまどう人びと。これと同じ映像を見たことがあります。我々は戦争を知りませんが、3.11に味わわされた本能的な恐怖は知っています。とうてい太刀打ちできない圧倒的な破壊力を前にどうしようもなく無力を感じたあの瞬間を、誰もが今でもはっきりと憶えているのです。そして次々と起きる予想を遥かに超えた事態、官邸の動揺と混乱を隠し切れない記者会見、押し迫る海外からのプレッシャー。既視感ある映像の数々により、SFのはずの世界観は、いつの間にかテレビ中継のように現実のものとなって迫ってきました。
庵野秀明監督だけあって、テロップの明朝体や作戦名、ゴジラの形態変化はエヴァンゲリオンを思い出しました。また、さまざまな人間が集う災害対策本部はネルフのようです。未知の生物と戦うという点ではエヴァも同じです。
しかし日本政府にはエヴァンゲリオンという架空の戦闘機はありません。現実の彼らが戦うには、法律、縦割り、アメリカなどなど、ゴジラにたどりつくまでにさまざまな壁を乗り越えなければなりません。規律を守ることを是とする日本において、それらすべてをたやすく飛び越えて世界を救うスーパーヒーローはもちろんいませんから、公務員も民間企業も研究者も一丸となって、それぞれがそれぞれの役割に黙々と徹し、実直に、かつ迅速に壁をひとつずつ壊しながら、確実にゴールを目指します。それは日本人にしか導けない道でした。
そしてたどりついた、ヤシオリ作戦。ゴジラは凍結され、核兵器の使用をまぬがれた世界は平穏を取り戻します。特撮映画らしい、ハッピーエンドのはずでした。しかし『ゴジラ』は決してそんな安易な決着を許しません。凍結したゴジラの尻尾の先端が大写しになるラストカット。そこには、今にも飛び立とうとしている幾つもの人型がありました。これは、ゴジラの分裂を食い止めたという勝利の証なのか、それともまた新たな悪夢がこれから始まろうとしている示唆なのか…。明確なピリオドを打たずあれこれ考察の余地を残すところも、実に庵野監督らしいと感じます。
もちろん、「出来すぎ」な部分やカヨコのような非現実的な女性キャラも登場しますが、これはあくまで特撮映画であることを考えれば許容範囲の部類です。
被爆国である日本だからこそ生まれた『ゴジラ』。そして震災を経験しなければ響かなかったであろう『シン・ゴジラ』。ゴジラはいつも、日本という国そのものを象徴してきたのかもしれません。だからこそ、ゴジラは65年もの間日本人の心を惹きつけてやまない唯一無二のキャラクターとなりえたのだろうとようやく理解できたように思います。
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