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いかに寝て起くる朝に言ふことぞ昨日をこぞと今日をことしと(小大君)
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恋には夏の景色が似合います。
眩しい陽差しは心を躍らせ、深く透い青空に想いは募り、きらめく水面もそよぐ木の葉も土埃も、君のいる世界のすべてが美しく愛おしく。
しかし季節はめぐる。秋を呼ぶ風が、君も連れ去ってしまう。
あまりにも短い、けれど濃密なひと夏の恋。
80年代の北イタリアのどこかの街。教授の息子エリオは、父が家に招いたアメリカ人の青年オリヴァーと出逢います。食卓をともにし、自転車で街をめぐり、川泳ぎや遊びに興じるうち、エリオにはオリヴァーに惹かれていく気持ちがいつしかあふれていきました。
博識なオリヴァーはもちろん、エリオも読書や音楽に造詣深い少年です。知性に彩られたふたりの逢瀬は、まるで神話の一場面のように神秘的で哲学的ですらありました。
秘められていた自分が、相手によってするすると引き出されていく。
まるで海底から引き揚げられたヴィーナス像のように、肌が、心が青空の下にさらされる。
交わす言葉も、くちづけも、愛撫も、相手に知られたくない行為を知られることも、何もかもが禁忌であり、それこそが恋の本質であり。
互いのことを知りたくて、もっともっと知りたくて。
——君の名前で僕を呼んで
どれほどの愛を交わしても、ふたつの個体はひとつにはなれない。
季節の終わりはやってくる。
彼らは理解しているのです。これがひと夏の熱情であることを。夏が終われば、恋の終わりも訪れることを。
そして秋が過ぎ、冬が来る頃。エリオは彼の口から、彼が結婚することを伝えられます。
受話器を置いた後、暖炉を見つめながら涙を流すエリオ。
僕の名前で呼んだ彼はもういない。オリヴァーと呼ばれたあの夏は、もう二度と戻らない。
「――エリオ」
母の呼ぶ声で、物語は幕を閉じます。
エリオに戻ったエリオは、その恋を暖炉の炎に投じることはできたのでしょうか。
季節がめぐり次の夏、エリオは何を思うだろう。目に映るすべてに彼が刻まれたこの街で、その恋は思い出になりえただろうか。
彼と出会う夏までと同じように、アプリコットジュースを味わえるようになれば良いのだけれど。







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キム・ギドクが原案・脚本・製作総指揮をつとめた2013年の作品。
疑似家族として韓国に潜入した北朝鮮の工作員4人が、騒がしい隣家と交流するうちに発生していく心境の変化が、笑いとシリアスを交差させながら描かれています。
敵とみなす国が国境をへだてて隣接しつねに緊張感を求められる状況にはない日本に住んでいる人間としては、途中までフィクションとして観ていました。無意味に見える任務にひたすら取り組む姿はコメディですし、酒に酔うとついつい北を擁護しちゃうような脇の甘いところも滑稽です。しかし、彼らが手を血で汚すこともためらわないのは国家のため総書記のためと口にしながら、それは本音では決してなく、いわば人質のように国に縛られている家族のためでした。
子にも妻にも孫にも会えず、それぞれの背景も知らない同志と家族のフリをして暮らしながら、本当の家族のために涙を流すことも許されない。
そんな苦しみも知らず、塀を隔てた隣では、昼夜問わず諍いが絶えない。最初は「ほらこれが資本主義の限界だ!」「堕落してる!」と批判していた冷酷で厳格な班長も、家族だからこそできるそれらの行為を目の当たりにするうち、どうしても北に残してきた娘のことを思い出さないわけにはいかず、本当に大切なもの、守りたいものは何なのかを思い出していきます。
そして、いつの間にか疑似家族も、彼女にとって大切な、守るべき家族になっていました。夫を殺され娘と会えない悲しみの穴を埋めてくれたのは、疑似家族を本当の家族と思いそのために動くことでした。しかし、脱北を企て捕まった疑似夫の家族を救うため彼女が行ったことは、逃亡者を装ったスパイを暗殺してしまうという工作員としてはありえない失態でした。
彼らに残された最後のチャンスは、隣家への暗殺指令。
人としていちばん大事なことを思い出してしまった彼女たちにとっては、もっとも残酷な指令でした。
祖母がいて、両親がいて、息子が住む隣家。
疑似家族も、祖父と両親と娘という設定です。
三世代が一緒に暮らす家は、のちの世に命をつないでいく連鎖を示しています。子を守り育み、その子がさらに子を産み、そうして家族は連綿と受け継がれていくのです。
工作員たちは隣家のことを「チャンス(息子)の家族」と呼んでいました。チャンス、そして「娘」のミンジは、これからの連鎖を担う子たちです。いわば彼女たちが未来そのものです。そして北批判、北擁護をくり広げた大人と違い、彼女たちは「南北統一」という展望をはっきり描いていました。だから、大人たちは彼女らに命をかけて託しました。家族が一緒に暮らせる、あたりまえの未来を。
そして、あたりまえを知ったのはもうひとり。
ツツジ班を取り仕切る金物屋の親父・野ウサギ。彼も世話を焼いてくれる女性との間にうっかり子どもを作ってしまいました。葬るべき相手は、彼の正体を知ってもひるみません。すべてはお腹の子を守るため。親が子を守るのもまた、あたりまえのことなのです。「祖父と両親」がミンジを守ったように。
母の強さを前にしては、北の工作員もかたなし。親に挨拶させるため彼女が持参したセーターを着せられた野ウサギがその後どうなったのかは語られません。彼もまた、人の連鎖に組み込まれ「あたりまえ」を知っていったのでしょうか。
流れるように変化していく心情、巧みに配置された示唆など、監督でなくてもところどころにギ毒が効いていて、終わる頃にはすっかり取り込まれている自分がいました。
ただ、物語の中では幸せになれなかった疑似夫婦を演じた俳優さんがこの共演をきっかけに結婚したと知って、少し救われたような気持ちになりました。













『仁義なき戦い』は観たことがありません。ヤクザ映画と呼ばれるものも、『アウトレイジ』か『新・悲しきヒットマン2』(今井雅之さん主演だから観ただけ・なんと当時無名の北村一輝も出演していた)くらいなもので、ドンパチにあまり免疫がありません。
よって○○組と○○組の対立だの、○○会傘下だの、登場人物の整理ができないまま話が進み、方言でセリフ(とくに人名)が聞き取れないこともあって、あまりストーリーを把握できないうちにラストまで行ってしまったところはありますが…。
キャストの熱演と白石和彌監督独特の撮影法のおかげで、最後まで息をつかせず観入ってしまいました。
役所広司のうらぶれた悪徳刑事と松坂桃李の広大出身エリートの対比は、バディものとして王道ではありますが、わかりやすい設定で痛快でした。とくに松坂桃李演じる日岡の、変わり果てた大上の姿を目にして我を失い、何の光もない両目でチンピラを殺さんばかりに殴りつけるさまには背筋が凍りました。
単純なエンターテイメントとしてなら、人間関係の単純な『アウトレイジ』の方が楽しめたように思いますが、激しい暴力と残虐性の中にも人びとの感情の微細な揺れ動きを感じられ、積み重なった愛憎の崩落から起きる事象の織り成し方は、なんとなく女性作家ならではの印象を受けます。これほど硬派なヤクザものの作者が女性であったことは驚きを禁じ得ませんが。
キャストも豪華で、『アウトレイジ』と重なるキャラの石橋蓮司の存在感はさすがですし、江口洋介と竹野内豊は意外なキャスティングながら裏社会の雰囲気がよく出ていましたし、音尾琢真や中村倫也など、端役に至るまでヤクザらしくて良かったです。真木よう子や阿部純子の女優陣にも昭和風の美を感じました。
しかし何といっても、架空の街とはいえ昭和の風景を再現した白石監督の映像です。薄曇りで建物の輪郭が濃く映える呉原の路地裏を、肩で風切り闊歩する男たち。威圧感を与えながらどこか滑稽なのは、彼らもしょせん大上の掌の上で踊らされているだけだからでしょう。
ただその駒たちも、時には容赦なく牙を剥きます。ましてや県警の上層部が関わっているとなれば、大上といえども太刀打ちできませんでした。そしてその大上を殺した張本人ともいえる警察に属したまま、復讐を誓った日岡。続編においては見た目も大上そのままに警察権力を駆使して呉原の街を掌握しています。魅力的なキャストが集う続編に期待が高まります。










アマゾンプライムに加入して、まず視聴したのが『鬼滅の刃』(…)。
そしてドラマ『ROOKIES』でした。
ドラマはリアルタイムで観ておらず、あとでたまたま漫画を読みました。
いやー、面白かったです。ドラマも観ればよかったといたく後悔しました。
野球部の不良どもが熱血先生のもと力を合わせ仲間を信じ、夢に向かってひたむきに努力する…いかにも少年ジャンプ的な、ベタなお話とあなどっていたのですが、大人でも普通に感動しました。川藤先生の存在感が大きいからでしょうか。ちなみに同じ部活系である『SLAM DUNK』をはじめて読んだのはリアル高校生の時でしたが、今だと違和感を抱いてしまうと思います。教師の存在が薄いからです。もちろん安西先生や対戦校の顧問など、大人たちの心情が語られる場面は少なくないのですが、部員たちと同じスタンスにいることが多く(大人から見れば後先顧みない無謀な高校生たちの行動を咎めることなく、彼らの補助的役割を担っている)、大人として子どもを諭し導く存在にはなっていないからです。もちろん「大人は面倒くさい」と感じる世代の子どもたちが読者のメイン層である以上、配置としてはそれで正解なのですが。
暴力や権力が彼らを導けないのはもちろんですが、「理解」だけでもまた、心を通わせることはできません。必要なのは、裏表のない言葉。川藤は、安西先生たちと同様不良どもと同じスタンスに立ってはいるものの、決して補助するだけではなく、彼らの先頭に立って光ある方へとひっぱっていきます。だから部員たちは「川藤」と呼び捨てし時にはツッコミを入れ、まるで仲間のひとりのように扱いながらも、いつも自分たちを引率してくれる川藤の言葉に絶対的な信頼を置き、後についていける大人として敬っていられるのです。
まあ、現実にはこんな教師は存在しません。
だから漫画たりえるのですが。
アニメならまだしも、実写で川藤を嫌味なく演じるのは難しい。それを、最近は悪役も板についてきた佐藤隆太が底抜けの元気とあかるさで表現していました。安仁屋たち個性的な部員の面々も、まるで漫画から飛び出してきたような色とりどりの風貌で当時伸び盛りの若手俳優たちが演じています。もうすでにテレビではお目にかかれない人たちもいますが;今をときめく佐藤健や桐谷健太も端役だったとは驚きです。
そんなイケメンたちを拝んでいるのも楽しいですが、前半は原作に忠実に、後半は原作をうまく端折ってまとめていました。
さてその続編となるこの映画。ドラマの続編ですから、映画としてではなくドラマの延長版として観るのが正しいのかと思います。
2時間半という長丁場ですが、その間に赤星・濱中といったドラマでは登場しなかったキャラを出し、さらに予選決勝まで描くには少し駆け足すぎたかと。いわば原作の最終回、川藤との突然の別れの後、翌春の再会→夏の甲子園出場という説明なしのイラストのみで表現された数か月をここで物語として描いたことになるのでしょうが、川藤の復帰で勢いづいた野球部、川藤の存在の大きさをたった数ページで表現したことがラストのカタルシスにつながるのであり、ドラマでも再会のシーンはドラマとして感動的に描かれていいため、「その後」を具体的に見せられると、どうもその感動が薄れてしまったような…。
そしてこの映画はどちらかというと川藤は補助的役割になっており、部員たちの夢への執念、思いの強さが主体になっています。勝利を目前にした安仁屋がマウンドで涙する場面は、普段強がって斜に構えていた彼が本当に子どものように泣きじゃくっていて、いい演出だなあと思いました。
そして甲子園出場を決めたニコガクが聖地でどんな戦いぶりを見せてくれたのか、そこは描かれず、ラストは笑顔の卒業式でした。
『タッチ』の最終回でも明青の全国制覇が優勝盾だけで表現されていたように、どんなスポーツ漫画も全国に行くまでがメインとなっているのではないでしょうか(スラムダンクも神奈川大会で終わっていてもじゅうぶん名作だったと思う)。実際の高校野球でも、県大会優勝(=甲子園出場)と準優勝では雲泥の差があります。甲子園出場は優勝の御褒美みたいなものです。県大会を勝ち抜くほうが甲子園で勝つより難しいという都道府県もありますしね。ちなみに予選ではなく○○都道府県大会です。
エンディング、河川敷を歩く部員たちの後ろ姿には、もっと彼らのわちゃわちゃした姿を見たい…という感傷にかられました。
青春ドラマの佳作でした。リアルタイムで観ていなかったことが惜しまれます。

















震災から10年…ということでテレビ放送していたのを観ました。
10年という歳月は過去と呼ぶにはあまりにも短く、当時の記憶は今でも鮮明によみがえります。
津波の被害に追い打ちをかけるかのような原発建屋の爆発に、日本は、世界は終わりだと思いました。何もかもが現実のものとは思えませんでした。
誰もが想像できなかった、誰もがはじめて直面した状況で、流れてくる情報は絶望的なものばかり。
無知で無力な傍観者はテレビの前でただ祈るしかありませんでした。
ましてや、その時の現場の状況など、想像すらしようがありません。
ただ、後日目にした現場と本店とのやりとりでの吉田所長の様子は印象に残っています。現場の危機的状況を理解しているようには見えない本店に対し、怒りや焦燥感を押し隠すように冷静に対応していました。実際は映画に描かれたように語気を荒げたり暴言を吐くこともあったかもしれませんし、やりとりしたすべてを世間に流したわけではないのでしょうが(どちらの立場を慮ったのかはともかく)。
この作品では、本店と官邸の二重の抑圧に耐えながら、命に係わる作業を指示しなければならない全責任者としての苦しみもひとりで背負うことになった吉田所長を中心に、命を賭けた作業に挑んだ現場の人たち「Fukushima50」の戦いが経過を追って描かれています。
オープニングから緊迫感は相当なものがありました。地震、津波、電源喪失と事態は急激に差し迫っていきます。人類がどれだけ冷静に判断し、着実に行動しても、自然の脅威はたやすくそれを超えていき、人類が発明したクリーンで安全なエネルギーをも暴走する凶器に変えてしまいました。
未曾有の事態にも使命感を失わない作業員たち。ベントはみずからの体ひとつで原子炉建屋へ突入するという危険きわまる作業にもかかわらず、福島を、原発を救うために立ち上がります。まさにそれは「決死隊」、総理も顔色を失った、現場の壮絶な状況を表すひとことでした。
総理の名前はこの作品内で明示されません。当時の総理のことはもちろん憶えていますが、とりわけ批判的に描かれているとは思いませんでした。むしろイメージどおりでした。悪役に徹していたのは本店(篠井英介演じる東都電力常務)です。吉田所長との対話映像を観ていた者としてはこれもイメージどおりなのですが、こちらをわかりやすい悪役に置いた理由も何となく察しはつきます。
しかし、本当の「悪」はいったい何だったのか。
地震か。津波か。それらの脅威を軽視したことか。
それとも、原発の安全神話を盲信していた我々か。
人類が生み出した最悪の兵器は、最良のエネルギー源に姿を変え、後世に残っていくはずでした。
しかしその希望も、わずか50年あまりで失われてしまいました。
原子力と共存する未来は戻ってくるのだろうか。
たった10年でそれらの疑問を解決することはできません。フクイチの事故そのものも終結を見ていないのです。それが果たしていつになるのか、住民が故郷に戻れる日が来るのかすらも見えてきません。
「Fukushima50」の人たちが賞賛されるべきなのは当然として、この事故を彼らの美談で終わらせるだけでは何も解決を見ません。
これからの10年は、人類がしてきたことの後始末をしていく時間になるのだろうと思います。





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