『ダークナイト』で強烈な印象を残し、演じたヒース・レジャーが公開前に急死したことも相まって、ひとつの伝説になってしまった「ジョーカー」という存在。 アメコミに詳しくはないのですが、悪役のひとりに過ぎないキャラクターがここまで注目されるのは、日本でいえば敵役で人気を博したシャア・アズナブルや志々雄真実のようなものでしょうか。 しかしキャラに命を吹きこんだジャック・ニコルソン、その生きざまを手触りあるものにしたヒース・レジャーというふたりのジョーカーがいなければ、おそらくこの前日譚も産まれなかったかもしれません。 そして今作のジョーカーを演じたホアキン・フェニックスは、ジョーカーが生まれていく過程を説得力を持って表現しています。まさしくここから、あのジョーカーにつながっていくのだという確信を得る演技でした。 物語は、主人公アーサーの視点で展開していきます。 のちのジョーカーとなる人物ですから、倫理観は常識の範疇ではありません。むしろ狂気を孕んで、観る者を巻き込んでいきます。 善と悪。生と死。愛と憎しみ。悲劇と喜劇。すべての事象は合わせ鏡。 混沌とする街で夢かうつつかもあやふやな日々を送るうち、アーサーの内面に育まれていったジョーカーは、やがて彼の心を支配していきます。 そして、何人もの命を奪い、暴動を起こす市民たちのカリスマ的存在となるのです。 しかし果たしてそれが現実のできごとなのか、判然とはしません。 アーサーは脳に障害を負っており、薬も服用しています。描かれてきた「事実」が実はアーサーの妄想であったことが示唆される場面もあります。 ですから、アーサーがジョーカーとなった「事実」も、実は精神病院に収容されたアーサーの妄想なのかもしれません。むしろ最初から、すべてが妄想だったのかもしれません。 ただ、すべてを妄想と切り捨てるには、それまでのアーサーの境遇はあまりにも悲愴に満ちており、むしろ彼がジョーカーとなって初めてアイデンティティを手にした瞬間がある種のカタルシスをもって描かれていただけに、彼は彼を傷つけ苦しめ貶めていた社会からようやく解放されたのかもしれないと、その存在を受容してしまう自分を否定できません。 だからこそ、この作品は賛否両論なのだと感じます。 舞台である80年代と今のアメリカは、たいして変わらないのかもしれません。格差も差別も、社会に根強く残っています。その価値観のすべてを狂気によって覆し、貧困にあえぐ民衆のカリスマとなったジョーカー。彼の存在をあがめることは、危険思想そのものです。現実にも、ジョーカーのような存在が現れないとも限らないのです。妄想オチという解釈の余地を残したのは結果的に良かったのかもしれません。この曖昧なラストが作品の質を落としているわけではありませんから。 最初から最後まで、ジョーカーになりきったホアキン・フェニックスは、オスカー受賞も納得の怪演でした。 しかし今後、ジョーカーを演じようという勇気ある俳優は出てくるのでしょうか。 PR |
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