『今日から俺は!!』
高校生の時、友達間で流行っていたこの原作。ヤンキー漫画と敬遠していたものの、友人の爆笑ぶりについ一冊借りて読んでみたら、見事にハマってしまいました。 しかし卒業するまでには読みきれず(完結もしていなかった)自分で集めようかと思っていた矢先、大学入学後に彼氏の下宿で再会しました。しかも全巻揃っている! それからは毎週のように行っては読み行っては読み、もはや漫画を読むために彼氏の家に行っていたようなもの。すなわち『今日から俺は!!』がふたりの関係を結びつけたと言っても過言ではない! …かもしれない(今のツレである)。 さて、そんな20年前の漫画がなにゆえ今頃連ドラなのか、という疑問はあるにせよ、『左江内氏』を作ったスタッフなので、またあの原作をいい意味でガン無視したコメディドラマになるのだろうとは思っていました。原作は連載当時の90年代が舞台ですが、80年代に変更されています。いわゆるヤンキーがひとつのアイデンティティーとして生まれた時代ですし、理子の聖子ちゃんカットや京子のスケバンスタイルも私が現役高校生の頃の大阪ではもう時代遅れなものでしたから、三橋と伊藤が今日からヤンキーになる過程をわかりやすい設定にしているのかもしれません。 三橋役の賀来賢人はさすがのなりきりぶり。変顔おちゃらけとシリアスをうまく使い分けて、男女関係なく読者を惹きつけた三橋の魅力が充分伝わってきます。 そんな三橋に必死についていく若君様(伊藤健太郎)。だんだんはじけてバカっぽくなってきました(←褒めてます)。京子とのバカップルぶりは今後ますますおかしくなっていくはず。 理子演じる清野菜名は聖子ちゃんカットに違和感がまるでありません。さすがアクションもさまになっています。父(佐藤二朗)のアドリブに笑いを必死にこらえる姿は大変そう。まだ優等生風ですが、いつかあの腹黒っぽさを出してくれるのでしょうか。 橋本環奈はさすが福田組、美少女アイドルとは思えない変顔をさらしています。原作の京子とはまるで別物になっていますが、あの低身長でいくら女子高とはいえ番を張るのは無理だと思うのですがね。明美(これまたアイドル)のほうがいかにも昭和のそれっぽい。 そして、三橋以上に難解な役柄だと思っていた今井を、太賀が好演しています。身長の低さと詰め物感満載の上半身がちょっと違和感ですが、心底バカな今井をあれだけ愛嬌たっぷりに演じられる俳優は他にいないのではないかと思わせるほど。冷静なツッコミの間が光る矢本悠馬(谷川)ともいいコンビ感を出しています。 「ヒデ! 悪い子になって!」と言いたくなる相良(磯村勇斗)はラスボス感たっぷり。智司はこれから見せ場があるのでしょうか。佐藤二朗とムロツヨシの長尺アドリブはちょっと蛇足感がありますが…録画は必ず月曜に消化するほどハマってしまいました。 もう半分ほどが過ぎてしまいましたが、あの長い原作をどう消化していくのか気になります。廃墟に閉じ込められて無機物(コンクリ片)を食する今井、枯れ井戸に落ちてひとり取り残される今井のエピソードは是非実写で! 『まんぷく』(承前) 早くも感想その2。 萬平さんにすっかりノックアウトされております。 恋する福子の前で緊張する萬平さん、憲兵に捕まって傷だらけの萬平さん、結婚したらいつの間にか「福子」呼びの萬平さん、お風呂に入る萬平さん、妻の布団にもぐりこんで腕枕ポンポンの萬平さん。・・・ しかしなんといっても、「おいで」の破壊力よ! あのひとことで鼻血ブー(古)の主婦がどれだけ量産されたことか! もちろん安藤サクラの繊細な演技もドラマの質を高めています。が、もはやヒロインはハセヒロと言っても過言ではない。 いや、もうひとりいました。鈴さんです。 何かといえば「武士の娘」を連呼し、毎日のように「孫はまだか」攻撃、娘だけでなく婿に対しても文句タラタラ、今だったら「毒親」と呼ばれる部類かもしれません。しかしそれを不快感なく演じられるのは、この日本で松坂慶子しかいないのではないかと思われます。コロコロした体型で塩軍団の世話にバタバタ走りまわる姿はまるで母犬のよう(『動物のお医者さん』でチョビの世話をさせられたリリーちゃんのような)。悪態ついていてもおいしい食事の前ではコロッと態度を変えてしまうところも憎めません。 今のところ、本来のヒロインがこのふたりに喰われてしまっていてあまり魅力を感じられないのが残念です。金策に走り回ったり、塩軍団の気持ちをまとめたり、おかみさんとして手腕を発揮し始めましたが、萬平さんや鈴さんが割とアップテンポなのに較べて福ちゃんひとりがゆっくりめ、それなのにいきなり高い声を張り上げたりするので、目立つべき場面なのにかみ合わなさを先に感じてしまいます。『マッサン』のエリーのような存在感を発揮するような演出をしてほしいですね。 ちなみに、横で見ていたツレの感想は「泉大津の海があんなキレイなわけあらへん」でした。 そりゃ、今はそうでしょうよ(by紅しょうがのネタ「二色の浜はヘドロみたいなとこ」)。 PR
『まんぷく』
BK制作らしい「ベタ」な演出が光る原点回帰の朝ドラ。実在の創業家夫婦をモデルにしているだけに戦争も苦労話も我慢して待つことができますし、目の保養になる美男美女ぞろいのキャストで、安心感があります。 はじめてのママさんヒロインとなった安藤サクラ。内田有紀や松下奈緒、橋本マナミら正統派美女に囲まれて、作品内でも「美人にもいろいろあるから」と容姿における同等の評価は受けていない模様。ただいわゆる朝ドラヒロイン的な「かわいいけどドジっ子でおせっかい。でも一生懸命がんばります!」キャラではなく、無邪気で気立てがよい末っ子気質と、気配りができて教養もあるしっかり者の両面を備えている女性として描かれているので、違和感がありません。映画女優としてキャリアを積んでいるだけあって、演技も落ち着いています。 ただ落ち着きすぎていて、朝ドラっぽく流し見していると、福ちゃんの心の動きに気づかないことがありました。機械オタクの萬平さんが福ちゃんを好きになる経緯はわかりやすいのですが、そのアプローチにあっさり笑顔で応える福ちゃんがなぜ萬平さんに惹かれたのか、よくわかりませんでした。ただ、カットごとに抜き出してみると、福ちゃんは最初から萬平さんをちゃんと恋する少女の瞳で見つめていたのですね。 萬平さんが憲兵に捕らえられたと知っても仕事に穴を開けることなく日常を過ごしながらも機転を利かせてその道の権力者に助けを求めるところなど、福ちゃんのしっかり者ぶりが活かされていて、どれだけ拷問されてもみずからの信念を曲げない萬平さんの姿と相まって、今後のまんぷく夫婦の生き方を示しているかのようです。 三週が終わり、咲姉ちゃんは亡くなってしまいましたが、克子姉ちゃんはもちろん、真一さんや忠彦さんもまんぷく夫婦を助ける存在となりそうです。忠彦さんが鳥の絵を描くのが好きというあたりは、チキンラーメンのアレに関連しているのでしょうかね…。愛之助(加地谷)があれでフェイドアウトなんてことにはならないだろうし、懲役400年(by華丸)の六平は戦後の闇市あたりで再会しそうです。 真一さんや忠彦さんに赤紙が来たのはショックでしたが、萬平さんも徴兵されてしまいそうですね。戦争が色濃くなってくると辛い場面が続きます。中でもいちばんショックだったのが、蘭丸(白馬)の出征です。みんな帰ってくるだろうから、蘭丸にもぜひ生きて帰ってきてほしい。また牧先生を背中にのっけて登場する場面があったら、確実に泣きます。きっと蘭丸も無事であると信じています。 ところではるか師匠、写真屋役で朝ドラに登場するの何回目…? 『SUITS/スーツ』 アメドラのリメイクと聞いていましたが、確かにキャラやセリフ回しがアメドラっぽい(見たことないけど)。ただオリジナルそのままに演じても違和感がないだろうキャラは蟹江だけですね。美女に弱い鈴木も、アメドラの若い主人公にありがち(見たことないけど)な造型ですが、中島裕翔の容姿がもともと真面目系なのであまりハマっていません。悪友に運び屋をやらされたり甲斐に振り回されたりする青二才の雰囲気はあるのですが。 織田裕二はああいう人を食った役回りがうまいですし、鈴木保奈美演じる所長とのツーショットは実に美しい。『東京ラブストーリー』の頃とはさすがに較べられませんが、どちらも良い歳の重ね方をしているなあと感じます。しかし甲斐のデスク周りに並んだアメフトやメジャーリーグのボールコレクションは日本人にはちょっと不釣り合いかなあ。 テンポが良くて話もわかりやすく、展開を考えずに気楽に楽しんでいます。 『獣になれない私たち』 一話の終盤まではシビアな展開が続いて、観ているのが辛かったです。 もちろん晶みたいに仕事ができるわけでもないし、あんなえげつないパワハラやセクハラを受けたわけでもありませんが、多かれ少なかれ「いろいろ抱え込んでパンクしそうになった」経験は、誰にしもあると思います。他人に仕事を押しつけて平気な顔でいる人や、相手の気持ちなど考えずに思ったことを全部ぶつけてくる人や、自分のたった一部分を切り取って人格を全否定してくる人や、都合が悪くなると聞こえないふりをする人。そういう人たちにも愛想を振りまかずに生きていけるほど強くもなくて、言いたいことを全部心の奥に押し込めて、にっこり笑ってやり過ごして疲れて帰ってダウンして、それでも朝はやってきて。そんな毎日をくり返していたら、いつしかストレスはコップの縁からあふれでる。 胸が痛いままだと視聴を続けられなくなるところ、最後の最後で晶は新しい服と靴で武装し、反撃を開始しました。溜飲が下がったものの、次の回で晶のレジスタンスがなかなかうまくいかないところもまたリアル。 そんな晶の生き方を否定した恒星。晶とは対照的に要領よく切り捨てるべきところを切り捨てながら生きています。だからといって、それが幸せと直結しているわけではない。彼女にフラれて、傷ついていても弱っていないふりをする。それが自分を守るすべだと思っている。晶とは対照的でいて、それでも同じ、平気なふりをしていても中身はボロボロ。 観る前は新垣結衣と松田龍平のラブストーリーと思っていたので、晶に彼氏がいることに少し驚きました。しかし京谷の家には母親が嫌がっていた元カノが居ついている。最近、優しく見えて優柔不断なだけの男を演じさせたら田中圭の右に出る者はいませんね。黒木華もどう絡んでくるのか、今後の展開が想像つきません。 『昭和元禄落語心中』 岡田将生が色っぽい…。 「芸事」には人生の機微が詰まっている、と思います。歌舞伎も落語も三曲も。だからこそその世界で生きてきた人間には、何とも言えない色気が漂う。見せかけのそれではなくて、ちょっとした所作や目線、声音のここそこに、相手をぞくっとさせるような魅力があります。 もともとどことなく陰のある美しさを持った俳優ですから、過去を背負った八代目八雲の青春期から老境までを演じるには適役かもしれません。ただ落語家の大師匠というには滑舌が悪い…頼朝をやっていた頃からあまり変わっていない…。 それはおいておいて、陽の空気を全面に出す助六との対比が明確でわかりやすいです。山崎育三郎はミュージカルをやっているだけあって落語の場面でもリズム感があります。まだ「心中」の場面は出てきませんが、原作は読まずに展開を待とうと思います。 タイトルどおり一貫して昭和の話のようですが、竜星涼と成海璃子も昭和風の雰囲気が出ていて実に良いキャスティング。ゆずの主題歌も透明感があって作品の世界観にぴったり。小道具に至るまで懐かしい風景で、昭和の人間としてはじんわり雰囲気にひたれる作品です。
『半分、青い。』
あーはいはい、結局鈴愛と律が結ばれてハッピーエンドね。 …と、そういう着地点のみを目指していたドラマではないことはわかっているのですが、結局鈴愛の40年を描いた半年間において、はっきりした結論が出たのはそのひとつだけ。マザー(そよ風ファン)の売り上げも、スパロウリズムの会社としての存続も、かんちゃんのスケートや転校も、晴さんのガンも、それは鈴愛の残り約40年の未来に託されて、ドラマの中で描くのは、ここまで。おしまい。 主人公の死(あるいは死期近く)で幕を閉じることの多い連続テレビ小説においては、主人公の人生そのものが主題であり、愛する人と結ばれたり困難にぶつかったり、それぞれのエピソードに起承転結があって、最終回はそんな人生の最終地点。主人公がこの世に置いていったものが我々の心に響く余韻となります。 ところがこの鈴愛の人生、主題がない。 漫画家を挫折したあとは、百円ショップのアルバイトになり、運命の(とその時は思いこんだ)人と出逢って結婚し、地道に生きるかと思えば旦那が家族より夢を大事にする人で結局離婚。実家に頼り、五平餅に目覚めてはすぐに投げ出し、娘のために生きるかと思えば商売に手を出し、元夫実家に頼り、幼なじみに熱を吹き…。 少し前の大河ドラマで「女の道は一本道」というセリフがありましたが、鈴愛の道は一本道どころか、いくつもの分かれ道でうろちょろ。時には道なき道を突き進んで自滅したりもします。言動も行動も一貫性がないし、まるで感情移入ができません。 もっとも、大半の人間の人生はそんなもんです。 ドラマみたいに順調に行くわけない。人生は七転八倒…じゃなかった、七転び八起き。 そして、マイペースで自己主張の激しい鈴愛は、平気で他人を巻き込み、人の思いを無碍にする。そしてうまくいかない原因を、視聴者も忘れていた耳の障害のせいにする。これもまた、人間あるある。他人を傷つけない人間などいないし、時には失敗を誰かや何かのせいにしたりする。年をとっても仲良しの親には甘えたいし、そんな子を見放す親だっていない。 しかし、我々が見ているのはあくまで「朝ドラ」。 朝ドラは「一本道の女の道」を見たい。波瀾万丈であっても、基本的には清く正しく美しいヒロインの人生を見たい。どこにでもいる、もしかしたら自分かもしれないヒロインの現実的すぎる人生なんて見ていて気分いいわけがない。 などと言いつつ、最後まで見てしまったのは、やっぱりそんな鈴愛の結末は何らかの実りあるもののはず(『純と愛』のような破滅的なものでなく)という期待感のようなものからです。律とは結ばれたわけですし。この律も顔以外まったく魅力を感じない、自分本位な人間でした。元妻との間に子まで成しておいて、「鈴愛を待ってた」などとよく言えたものですが、そういう男がゴロゴロ転がっているのも現実なわけで。 最終週になって東日本大震災が起きました。裕子の死は、それまでにフラグを立てすぎなくらい立てていた(海の見える仙台の病院勤務であることや、この世に繋ぎ止めてもらいたいと鈴愛を抱きしめたこと)にもかかわらず、何日も引っ張られました。鈴愛にとって必要な時間にも思えなかったのですが…。 また、裕子の残した遺言が鮮明すぎることや裕子を呼ぶ同僚の声音が日常かと思うほどのんびりしていたのもあまりにも不自然で、泣くに泣けませんでした。まだ記憶にも新しい未曾有の災害を扱うにあたって、どういう意図でこんな演出をしたのでしょう。 また、旦那に「死ね」と言い放ったり、身内の病気を知って真っ先に「死ぬのか?」と口にしたりする鈴愛が、なぜ裕子の生死にだけはあれほど動揺したのか、これまた一貫性のないふるまいに見ていて疲れすら憶えました。もちろん、老いていた祖父母や老いていく母親の死と、同世代の、それも突然の災害による死とは受け止め方が違うでしょうし、とくに裕子は鈴愛の人生の大きな転機の際に寄り添ってくれた親友でしたから、半身をもぎとられたような悲しみに襲われるのもわかります。しかし視聴者にとっては、廉子さんも仙吉さんも晴さんも和子さんもみんなそれぞれ思い入れのある存在ですし、鈴愛の思いとはイコールではありません。なのに物語は鈴愛の気持ち本位に進んでいくものだから、視聴者の思い入れなどまるで介しません。 このドラマに入り込めない違和感は、ここにあります。 ある程度の起承転結とヒロインの潔さ、爽快感のあるラスト、誰の命も等しく扱われるべきもの、視聴者が朝ドラに定義づけていたすべてを裏切る内容でした。これこそ、「革命を起こす」と言っていた作り手の意図するところだったのかもしれません。 ただ、前の感想でも書きましたが、朝ドラは本来朝に見るものですから。一時間の夜ドラマと違ってじっくり見るのではなく、ふわっと流し見でもストーリーに入り込め、主役から脇役まで思いを馳せられるものでありましたし、これからもそうあってほしいと思うのです。 型破り型朝ドラは『カーネーション』や『あまちゃん』など、今までにも成功例はありましたが、いずれも視聴者側の視点を持っていたこと、脚本と演出が一体化していたことがその要因でした。そのふたつとも見られなかった今回の朝ドラは、自分の中では「再放送されても見ることはない作品」という位置付けになりました。 ただ、ゼロから何かを産み出さなければならないクリエイターの苦悩を感じられた漫画家編はリアリティーを感じて、非常に見ごたえがありました。あのクオリティーが維持できていればなと少し残念です。 『西郷どん』(承前) なんとなく予想していた事態ではありますが、歴史が大きく動き出す展開とは逆に、ドラマはみるみる勢いを失ってしまいました。 歴史ドラマにあってもっとも展開をつまらなくさせるのは、現代の死生観や価値観を持ち込んで主人公に「戦はダメ!」「命は大事!」と叫ばせることだと、最近の大河ドラマを見てつくづく感じていたのですが、この作品はその禁忌を犯してしまいました。 禁門の変において、西郷は薩摩軍の攻撃を止めて戦を終わらせようとしますが、横から割って入った会津藩が西郷の意思を無視して長州勢を殲滅させてしまいます。人物にわかりやすく善悪を付与する描き方は、この作品では序盤から頻繁に使われていました。もちろんここでも、無駄な殺生をする会津が悪で、命を守ろうとする西郷が善側です。 後世の人間がその時の価値観で判ずる善悪など歴史の解釈においてはまったくもって無意味なものです。民を愛しひたむきでまっすぐ、という西郷の人物像がベースにあるとしても、現代的な反戦思想が幕末に相通じるはずがなく、西郷を善側に立たせたいがためにこのような寝ボケたセリフを口にさせたのならまったくもって稚拙な脚本であり、歴史に対する冒瀆とすら感じます。ヒーローたるもの無駄な殺生はせずに悪を倒す、子ども向けの特撮ものならそれもありでしょうが、なぜ歴史ものにまで無理くりあてはめようとするのでしょう。 これでいったいどのように明治維新=数多の犠牲の上に成り立つ革命を描くというのでしょうか。西郷は「無血開城」という聞こえの良い手柄だけをかっさらい、奥羽越を攻めるのは長州の独断で、西郷は「無駄な戦はやめるんじゃ!」とか叫ぶだけなのでしょうか。 征韓論はどう説明するのでしょうか。周りに担ぎ上げられただけで、西郷は「無駄な戦はやめるんじゃ!」とか叫ぶだけなのでしょうか。 西南戦争はどうオチをつけるのでしょうか。西郷は田原坂で「無駄な戦はやめるんじゃ!」とか叫ぶだけなのでしょうか。 そんな主人公、いらんがな…。 …などと考えているうちに見る気が失せ、しかも一人称が「マロ」なだけで完全に河内のおっさんな岩倉具視とか、この有事のさなかにうじうじ愛加那の話を持ち出す糸とか、まったくもって興を削ぐ展開ばかりで、もはや作業のBGMとして流すだけにしていたら、なんだかよくわからないうちに「慶喜を討つ!」「幕府を倒す!」などといっぱしの革命家っぽいことを叫んでいました。あれ、平和主義はどこへいった? どうしてこうなった? やっぱりここでも慶喜が「悪」で、善の西郷が悪を倒すという図式になってしまったのか? ちゃんと見ていない人間が言うのも何ですが、その場その場で都合の良いセリフばかり言わせるから、こんなブレブレの展開になってしまったのではないでしょうか? 松田翔太がインタビューで「僕が事前にリサーチした慶喜像というのは、しっかりとした政治家、戦略家というイメージ。今回は感情的で、乱暴なお殿様というか(笑)、すべて『慶喜のせいで』みたいなことになっている」と語っていましたが、この「(笑)」にすべてがこめられているように感じるのは気のせいでしょうか。かつて家茂を演じた松田翔太なら、もっと深みのある慶喜を演じられたはずと思うのですがね。歴史上の人物を善悪で分けることしかできないぺらぺらの脚本のせいで、演者の良さがすっかり失われています。 もちろん、主人公の西郷隆盛が筆頭です。めっきりキャラがブレてきたせいで、鈴木亮平がまったく魅力的に映らなくなりました。しかも残り三か月。これでどうやって明治政府のゴタゴタを描くのでしょうか。この作品は歴史の中心部分になると描写が薄くなり、ナレーションだけで終わったりセリフで説明されたりという展開が多かったので、おそらくそれらもさらっと過ぎていきそうな気がします。 今見てもまったくもって色褪せていなかった『翔ぶが如く』との落差に、すっかり萎えてしまっています。『翔ぶが如く』は群像劇で、これは西郷隆盛のヒーローショーですから、比較すべきではないのかもしれませんが…。それでも主人公の見ていないことは描かないと謳っていた『真田丸』が、それぞれの武将の義を描く群像劇そのものであったことを思うと、作り手が歴史を俯瞰する視点さえ持っていれば、決して不可能なことではないはずなのですがね…。 配役がずっと気になっていた桐野利明を大野拓朗、川路利良を泉澤祐希が演じると知って、それだけでも最後まで見る価値はあるかなとは思いますが、ちゃんと活躍してくれるのかな…。
『この世界の片隅に』
細かいところで「あ、そこそんな風に脚色しちゃうのか…」と感じる部分はあったものの、ドラマ自体としては毎週泣かされ、しみじみと余韻にひたることのできる良作に仕上がっていました。 なんといってもすずを演じた松本穂香の熱演が光りました。ほわんとした雰囲気やおっとりした所作、晴美と右手を失ってからの喪失感や終戦を知った時の怒り、すずのありとあらゆる感情がむき出しで伝わってきました。 「普通」のすずの「普通」の日常。「普通」だからこそ、いろいろな出来事に心は揺れ動く。松本穂香が無名だったからこそ、見る者は彼女を「普通」を生きる「すず」として受け入れ、すずに共鳴できたのかもしれません。 原作に忠実であるとはいってもやはりドラマですから、終盤の肝である「左手で描かれた世界」のカットとすずの「右手」の登場が終戦時のワンシーンだけであったことはやむなしと思います。すずの「右手」はすずが亡くなるまですずに寄り添い続けますが(と、右手からの手紙で自分はそう解釈した)、ドラマでは、号泣するすずの頭をふわりと撫でて消えていきます。それは戦争が終わったことによって、戦争によるすずの苦しみの終わりを示唆しているようにも感じました。 物資がなくても、空襲に遭っても、それは自分だけでなくまわりの人皆同じ環境、すずだけに与えられた苦しみではありませんでした。 目の前で右手と晴美が吹き飛ばされた事実は、すずだけのもの。そこからすずの戦争は始まったのかもしれません。戦争は自分の大切なものを奪っていった暴力であり、その暴力と戦い続けなければならないと実感したのかもしれません。すずの右手は、戦争に対する怒りの象徴であり、すずにとっての戦争そのものでした。 しかし戦争は終わり、右手もその役割を終えました。 泣き叫ぶすずの頭に触れたのは、お別れの合図だったのかもしれません。 右手の去ったすずの前に現れたのは、周作でした。 戦争の呪縛から解かれたすずに、これから戻って来るであろう「普通」の日常、その象徴が愛する人、周作なのだと感じました。 この世界の片隅に灯ったふたりの小さな愛。それはこの世界の片隅で必死に生きてきた原爆孤児の節子を照らすことになります。 原作のようにワイワイ賑やかに終わるのではなく、晴美の服を節子にあてて涙ぐむ径子に象徴されるようにしんみりとじんわりと余韻を残すラストでした。原作より感情豊かで愛嬌のある径子でしたが、尾野真千子の存在感はさすがでした。 最後の現代パートにおいて、マツダスタジアムでカープを応援していたのは90代のすずさんなのでしょうか。きっと周作さんも鬼籍に入って、今はもう少し便のいい場所に移り住んでいて、「この黒田って選手、周作さんに似とりんさる」てな感じでカープ女子になっちゃったのかな、なんて楽しい想像が広がります。 現代パートが2018年、今年であったからには、西日本豪雨災害は避けては通れない現実問題となったのでしょう。直接触れられる場面はありませんでしたが、積み上げられた土嚢が映し出されたり江口がボランティアに訪れていたことが語られたりしています。ラストの「負けんさんな! 広島!」のセリフも、過去から今に地続きとなるメッセージとして心に響きました。当初は蛇足と感じていた現代パートでしたが、このラストシーンにつながるのなら意味あるものだったのかもしれないと思います。 戦争の惨禍を直接的に「悲劇」として誇張しないところがこの作品のひとつの特徴でもありますが、ドラマにおいてもそこはきちんと守られていました。原爆投下後の節子と母親との別れも淡々と描かれています(ただ、駅舎ですずたちと出会った時、こぼれ落ちたおにぎりをすぐさま返すような子ではひとりで何か月も生き延びられるはずがないし、拾い上げ口にいれかけたところですずの右腕に母親を重ねて思わず渡してしまう原作の描写どおりになぜしなかったのかな…とそこは疑問に思いました)。また、広島で放射能を浴びた知多さんやすみちゃんが原爆病を発症すると思われる場面が出てきますが、気づかなければスルーしてしまうような描写にとどまっています。しかしすみちゃんがたまらず口にする不安や恐怖によって、語られなくなりつつある原爆の後遺症の脅威はしっかりと伝わってきました。挨拶もそこそこにすずを探しに立つ周作の背を見送るすみちゃんのゆがんだ表情は、セリフで説明しがちな昨今のドラマにあって、秀逸な脚色だったと思います。姉の夫がやさしい人でよかったという喜び、もう自分は姉のようにしあわせにはなれないのだという悲しみ。若く美しいすみちゃんの人生は、戦争の、原爆のせいで摘み取られようとしています。ほのかな恋心を抱いていた将校さんもきっともうこの世にはいないでしょう。この世界の片隅でさまざまな思いにかき乱されるすみちゃんに、涙を禁じえませんでした。 まとめて感想を書くのがむずかしいくらい、毎週いろいろな思いがあふれてくるドラマでした。ともかくも、自分にとってとても大切なこの作品が、高い評価を受けて最終回を迎えられたことにほっとしています。
『この世界の片隅に』
原作漫画は30回くらい読み返し、映画も2回観ました(12月に公開されるという完全版も観るはず)。思い入れはもちろん、あります。とはいえ、ドラマはドラマですから、原作そして原作に忠実だった映画との違いがあることは最初からわかっていますし、原作に思い入れがあればあるほど実写ものには違和感を抱きがちですが、これは思いのほかありませんでした。 私は、原作を「すずさんと周作さんのラブストーリー」として読みました。そしてドラマがより「ラブストーリー」に近づいていることも、原作との違いを抵抗なく受け入れられた理由でもあると思います。 リンとの結婚を反対された周作が、半ばヤケになって適当に昔一度会っただけの浦野すずの名前を口にしたことから、とんとん拍子に話が進んで結婚することになったふたり。結婚式後の宴会ではごちそうにも手をつけず口を真一文字に結んでいた周作。過ぎたこと、選ばなかった道を諦める覚悟を決めた周作は、その夜ふたりきりになって、ようやく花嫁にやさしい笑顔を見せます。ふたりの関係は、ここから始まったのだと思っていました。 しかしドラマでは、リンと結婚させたくない周囲から持ち込まれる見合い話に辟易していた周作が、みずからすずを選びます。そしてはじめて顔を合わせる相手(とすずは思っている)との結婚生活に不安を抱いているであろう花嫁に、「あんたと生きていきたい」とまっすぐな愛情を向けます。初回から、ドラマの方向性はあきらかでした。 そして原作で、里帰りしたすずが懐かしい街の風景をスケッチしながら「さようなら広島」とつぶやく場面。慣れない生活で頭にハゲを作り、広島に帰りたい思いをこらえながら、もう自分の居場所ではない広島に別れを告げ、呉の人間となる覚悟を決めたのでした。もっともその後に、スケッチに夢中になりすぎて帰りの電車の切符が売り切れていたというオチがつくのですが。 それがドラマでは、広島の町を歩いていると突然幼い頃周作と人さらいから逃げた記憶を思い出し、周作を追って呉へ急ぎ帰ります。そしてすずが帰ってきたことがうれしくて、海に向かって「お帰りすずさんー!」と叫ぶ周作。なんだかこちらが恥ずかしくなるようなシーンでしたが、演じている松坂桃李が魅力的すぎて、すずが周作をだんだん好きになってしまうのも当然だと感じてしまいました。 映画ではエピソードが省かれていて、物足りなく思っていたリンとすずと周作の関係性。リンを二階堂ふみが演じると聞いて、最初は少し不安でした。ビジュアルのイメージが異なることもさりながら、『西郷どん』であれだけ生命力にあふれた愛加那を演じたあとで、薄幸の遊女に変身できるのかと。しかしすべて杞憂でした。さすがは演技派女優です。あやうげな美しさも、みずからの貧しい生い立ちや恋しい人の妻であるすずを受け入れる包容力も、すべてがリンさんそのものでした。 すずの右手が紅で描いたリンの過去は、このドラマにおいては事実として描かれています。 原作ラストの鬼イチャン冒險記はどう扱うのでしょう。脳みそ(石)しか帰ってこなかった鬼いちゃんですが、浦野家の誰も要一が戦死したことを信じていなかったからこそ、すずの描いた鬼いちゃんの未来がほんとうのことになったのかもしれない、そうであってほしい、いやそうに違いないと感じたのですが…。もちろん、からっぽの骨箱を抱いて涙を流した母親がかつてこの日本にたくさんいたことも事実であって、だからこそドラマという媒体ではその多数の母親の姿を描くほうが自然なのだろうと思います。嫁ぎ先で苦労している娘を思いやる描写も原作にはないものですが(むしろ北條家の方を心配していた)、これもドラマならではの伝え方でしょう。ひさびさに見た仙道敦子が母親になりきっていて泣かされました。 現代編は、正直どうなのだろうとは思います。戦争を描く時、戦争を知らない世代に伝わりやすくするために現代と絡めるのはよくある手法です。が、佳代がなぜすずを知っているのかなかなか説明されないために、もどかしい気持ちになってしまうのは否定できません。『おひさま』のように年老いた主人公のところへ偶然聞き手が訪れて昔話が始まるとか、極端な話タイムスリップとか、最初から現代編の登場人物の出自が描かれていれば納得もいくのですが。 しかしドラマとしては演者をはじめ非常に質の良い作品に仕上がっていますので、現代編とすずをどうつなげるのか、不安ではなく期待を持って展開を待ちたいと思います。 ドラマオリジナルの登場人物である幸子や志野は、すずにとって救いの存在でもあり、ガールズトークのシーンは見る者の癒しでもあります。塩見三省の存在感もさすがですね。 もちろん、原作どおりの展開となるであろう、晴美と径子、広島の浦野家、刈谷さん、そして原爆孤児などのエピソードがどう描かれるかも楽しみです。 最後に、ネットなどでのんの主演を期待されながら抜擢された松本穂香ですが、多くの演技派に囲まれながらしっかりすずさんを演じています。ほわーんとしていながらも強い目力で言葉にしない感情を訴えてくるので、すずさんに感情移入しながらドラマに入り込むことができます。 あれだけ評価の高いアニメ映画のあとでの実写化ですから、制作側も相当気合を入れて臨んでいることが伝わってきました。原作ファンとして、評価を落とさないドラマとなったことは大きな喜びでもあります。 『夕凪の街 桜の国2018』 戦争もののドラマがめっきり減った昨今ですが、これはNHKらしい真摯な姿勢を感じる作品になっていました。 1時間ちょっとと短い枠だったので夕凪パートが大半を占めていました。原作の桜の国パートの設定であった2004年とは七波や凪生の年齢も状況も変わってきてしまいますし、最低限の描写にとどまってしまうのもやむなしかと思います。ただ、原作における東子の役回りを七波の姪の風子に置き換え、七波のアラフォーなりの葛藤もきちんと描かれていたので、制作側が伝えたいことは伝わってきたと思います。 皆実が黒い雨に打たれながら過去の記憶に苛まれる場面、原爆の絵が突然さしはさまれた時は衝撃を受けて目をそらしそうになりました。73年の時が流れて原爆資料館ですらソフト路線に転化していきつつある中、ドキュメンタリーでなく、ドラマでこのような映像を目にすることになるとは思いもしませんでしたが、制作側の強い意思の表れであると感じました。 予期せず視界に飛び込んできた、絵画とはいえかなりリアルに描かれたその日の広島。それはまさに8月6日の朝、皆実が、すべての被爆者が目にした光景です。現実のそれとは較べものにならないとはいえ、視聴者は彼女たちの日常が地獄へ変わったその瞬間を追体験したのかもしれません。 また、この絵画の制作者が地元の高校生という話も耳にしました。戦争を知らない若者が被爆者の話を聞いて表現した絵画作品をその日の現実として取り扱ったこともまた、意義深いと感じます。 皆実が決意をもって見上げた原爆ドームは、63年を経ても変わらぬ姿で七波を迎えます。広がる青空、緑生い茂る平和公園。広島の街でみずからのルーツに触れ、その日のことをだんだんと知っていく風子。被爆三世であるこの身が幸せを享受することを拒否しながら生きてきた七波。友達とはしゃぎながら修学旅行を楽しむ高校生たち。平和公園に集ったさまざまな人びとの、さまざまな思いを静かに見つめる平和の火。 戦争とは死による悲しみを生むだけでなく、生きてさえ苦しむものであるという、あまり語られることのない戦争の一面がしっかりと伝わってくるドラマでした。 川栄李奈が熱演でした。透明感のある笑顔、記憶を引き出され苦悩する表情、覚悟を決め固く結ばれた唇、皆実の10年間がそのすべてに刻まれていました。元アイドルとは思えない、本当にいい女優さんだと思います。 |
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