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いかに寝て起くる朝に言ふことぞ昨日をこぞと今日をことしと(小大君)
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『半分、青い。』
あーはいはい、結局鈴愛と律が結ばれてハッピーエンドね。
…と、そういう着地点のみを目指していたドラマではないことはわかっているのですが、結局鈴愛の40年を描いた半年間において、はっきりした結論が出たのはそのひとつだけ。マザー(そよ風ファン)の売り上げも、スパロウリズムの会社としての存続も、かんちゃんのスケートや転校も、晴さんのガンも、それは鈴愛の残り約40年の未来に託されて、ドラマの中で描くのは、ここまで。おしまい。
主人公の死(あるいは死期近く)で幕を閉じることの多い連続テレビ小説においては、主人公の人生そのものが主題であり、愛する人と結ばれたり困難にぶつかったり、それぞれのエピソードに起承転結があって、最終回はそんな人生の最終地点。主人公がこの世に置いていったものが我々の心に響く余韻となります。
ところがこの鈴愛の人生、主題がない。
漫画家を挫折したあとは、百円ショップのアルバイトになり、運命の(とその時は思いこんだ)人と出逢って結婚し、地道に生きるかと思えば旦那が家族より夢を大事にする人で結局離婚。実家に頼り、五平餅に目覚めてはすぐに投げ出し、娘のために生きるかと思えば商売に手を出し、元夫実家に頼り、幼なじみに熱を吹き…。
少し前の大河ドラマで「女の道は一本道」というセリフがありましたが、鈴愛の道は一本道どころか、いくつもの分かれ道でうろちょろ。時には道なき道を突き進んで自滅したりもします。言動も行動も一貫性がないし、まるで感情移入ができません。
もっとも、大半の人間の人生はそんなもんです。
ドラマみたいに順調に行くわけない。人生は七転八倒…じゃなかった、七転び八起き。
そして、マイペースで自己主張の激しい鈴愛は、平気で他人を巻き込み、人の思いを無碍にする。そしてうまくいかない原因を、視聴者も忘れていた耳の障害のせいにする。これもまた、人間あるある。他人を傷つけない人間などいないし、時には失敗を誰かや何かのせいにしたりする。年をとっても仲良しの親には甘えたいし、そんな子を見放す親だっていない。
しかし、我々が見ているのはあくまで「朝ドラ」。
朝ドラは「一本道の女の道」を見たい。波瀾万丈であっても、基本的には清く正しく美しいヒロインの人生を見たい。どこにでもいる、もしかしたら自分かもしれないヒロインの現実的すぎる人生なんて見ていて気分いいわけがない。
などと言いつつ、最後まで見てしまったのは、やっぱりそんな鈴愛の結末は何らかの実りあるもののはず(『純と愛』のような破滅的なものでなく)という期待感のようなものからです。律とは結ばれたわけですし。この律も顔以外まったく魅力を感じない、自分本位な人間でした。元妻との間に子まで成しておいて、「鈴愛を待ってた」などとよく言えたものですが、そういう男がゴロゴロ転がっているのも現実なわけで。
最終週になって東日本大震災が起きました。裕子の死は、それまでにフラグを立てすぎなくらい立てていた(海の見える仙台の病院勤務であることや、この世に繋ぎ止めてもらいたいと鈴愛を抱きしめたこと)にもかかわらず、何日も引っ張られました。鈴愛にとって必要な時間にも思えなかったのですが…。
また、裕子の残した遺言が鮮明すぎることや裕子を呼ぶ同僚の声音が日常かと思うほどのんびりしていたのもあまりにも不自然で、泣くに泣けませんでした。まだ記憶にも新しい未曾有の災害を扱うにあたって、どういう意図でこんな演出をしたのでしょう。
また、旦那に「死ね」と言い放ったり、身内の病気を知って真っ先に「死ぬのか?」と口にしたりする鈴愛が、なぜ裕子の生死にだけはあれほど動揺したのか、これまた一貫性のないふるまいに見ていて疲れすら憶えました。もちろん、老いていた祖父母や老いていく母親の死と、同世代の、それも突然の災害による死とは受け止め方が違うでしょうし、とくに裕子は鈴愛の人生の大きな転機の際に寄り添ってくれた親友でしたから、半身をもぎとられたような悲しみに襲われるのもわかります。しかし視聴者にとっては、廉子さんも仙吉さんも晴さんも和子さんもみんなそれぞれ思い入れのある存在ですし、鈴愛の思いとはイコールではありません。なのに物語は鈴愛の気持ち本位に進んでいくものだから、視聴者の思い入れなどまるで介しません。
このドラマに入り込めない違和感は、ここにあります。
ある程度の起承転結とヒロインの潔さ、爽快感のあるラスト、誰の命も等しく扱われるべきもの、視聴者が朝ドラに定義づけていたすべてを裏切る内容でした。これこそ、「革命を起こす」と言っていた作り手の意図するところだったのかもしれません。
ただ、前の感想でも書きましたが、朝ドラは本来朝に見るものですから。一時間の夜ドラマと違ってじっくり見るのではなく、ふわっと流し見でもストーリーに入り込め、主役から脇役まで思いを馳せられるものでありましたし、これからもそうあってほしいと思うのです。
型破り型朝ドラは『カーネーション』や『あまちゃん』など、今までにも成功例はありましたが、いずれも視聴者側の視点を持っていたこと、脚本と演出が一体化していたことがその要因でした。そのふたつとも見られなかった今回の朝ドラは、自分の中では「再放送されても見ることはない作品」という位置付けになりました。
ただ、ゼロから何かを産み出さなければならないクリエイターの苦悩を感じられた漫画家編はリアリティーを感じて、非常に見ごたえがありました。あのクオリティーが維持できていればなと少し残念です。

『西郷どん』(承前)
なんとなく予想していた事態ではありますが、歴史が大きく動き出す展開とは逆に、ドラマはみるみる勢いを失ってしまいました。
歴史ドラマにあってもっとも展開をつまらなくさせるのは、現代の死生観や価値観を持ち込んで主人公に「戦はダメ!」「命は大事!」と叫ばせることだと、最近の大河ドラマを見てつくづく感じていたのですが、この作品はその禁忌を犯してしまいました。
禁門の変において、西郷は薩摩軍の攻撃を止めて戦を終わらせようとしますが、横から割って入った会津藩が西郷の意思を無視して長州勢を殲滅させてしまいます。人物にわかりやすく善悪を付与する描き方は、この作品では序盤から頻繁に使われていました。もちろんここでも、無駄な殺生をする会津が悪で、命を守ろうとする西郷が善側です。
後世の人間がその時の価値観で判ずる善悪など歴史の解釈においてはまったくもって無意味なものです。民を愛しひたむきでまっすぐ、という西郷の人物像がベースにあるとしても、現代的な反戦思想が幕末に相通じるはずがなく、西郷を善側に立たせたいがためにこのような寝ボケたセリフを口にさせたのならまったくもって稚拙な脚本であり、歴史に対する冒瀆とすら感じます。ヒーローたるもの無駄な殺生はせずに悪を倒す、子ども向けの特撮ものならそれもありでしょうが、なぜ歴史ものにまで無理くりあてはめようとするのでしょう。
これでいったいどのように明治維新=数多の犠牲の上に成り立つ革命を描くというのでしょうか。西郷は「無血開城」という聞こえの良い手柄だけをかっさらい、奥羽越を攻めるのは長州の独断で、西郷は「無駄な戦はやめるんじゃ!」とか叫ぶだけなのでしょうか。
征韓論はどう説明するのでしょうか。周りに担ぎ上げられただけで、西郷は「無駄な戦はやめるんじゃ!」とか叫ぶだけなのでしょうか。
西南戦争はどうオチをつけるのでしょうか。西郷は田原坂で「無駄な戦はやめるんじゃ!」とか叫ぶだけなのでしょうか。
そんな主人公、いらんがな…。
…などと考えているうちに見る気が失せ、しかも一人称が「マロ」なだけで完全に河内のおっさんな岩倉具視とか、この有事のさなかにうじうじ愛加那の話を持ち出す糸とか、まったくもって興を削ぐ展開ばかりで、もはや作業のBGMとして流すだけにしていたら、なんだかよくわからないうちに「慶喜を討つ!」「幕府を倒す!」などといっぱしの革命家っぽいことを叫んでいました。あれ、平和主義はどこへいった? どうしてこうなった? やっぱりここでも慶喜が「悪」で、善の西郷が悪を倒すという図式になってしまったのか? ちゃんと見ていない人間が言うのも何ですが、その場その場で都合の良いセリフばかり言わせるから、こんなブレブレの展開になってしまったのではないでしょうか?
松田翔太がインタビューで「僕が事前にリサーチした慶喜像というのは、しっかりとした政治家、戦略家というイメージ。今回は感情的で、乱暴なお殿様というか(笑)、すべて『慶喜のせいで』みたいなことになっている」と語っていましたが、この「(笑)」にすべてがこめられているように感じるのは気のせいでしょうか。かつて家茂を演じた松田翔太なら、もっと深みのある慶喜を演じられたはずと思うのですがね。歴史上の人物を善悪で分けることしかできないぺらぺらの脚本のせいで、演者の良さがすっかり失われています。
もちろん、主人公の西郷隆盛が筆頭です。めっきりキャラがブレてきたせいで、鈴木亮平がまったく魅力的に映らなくなりました。しかも残り三か月。これでどうやって明治政府のゴタゴタを描くのでしょうか。この作品は歴史の中心部分になると描写が薄くなり、ナレーションだけで終わったりセリフで説明されたりという展開が多かったので、おそらくそれらもさらっと過ぎていきそうな気がします。
今見てもまったくもって色褪せていなかった『翔ぶが如く』との落差に、すっかり萎えてしまっています。『翔ぶが如く』は群像劇で、これは西郷隆盛のヒーローショーですから、比較すべきではないのかもしれませんが…。それでも主人公の見ていないことは描かないと謳っていた『真田丸』が、それぞれの武将の義を描く群像劇そのものであったことを思うと、作り手が歴史を俯瞰する視点さえ持っていれば、決して不可能なことではないはずなのですがね…。
配役がずっと気になっていた桐野利明を大野拓朗、川路利良を泉澤祐希が演じると知って、それだけでも最後まで見る価値はあるかなとは思いますが、ちゃんと活躍してくれるのかな…。


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