『知ってるワイフ』
タイトルの意味は、2話を観て「自分の知っている妻はどっちなんだ!?」という意味なのかと解釈しました。韓国語の直訳なのかもしれませんが、もっとひねった方が良かったのではないかなあ…。 韓国ドラマのリメイクで、どこまでオリジナル設定を入れているかはわかりませんが、身につまされるものがありました。豹変してしまった妻にゲンナリする夫、「あの時ああなっていれば…」という後悔にも似た思い。そして家事育児に親の介護、疲れ切った自分に無関心な夫、「こんなはずでは…」という嘆きは妻も同じ。主人公は夫なので夫側からの視点を中心に描かれていますが、怒鳴りたくて怒鳴っているのではない妻のやるせない思いもじゅうぶんに伝わってきました。 そして、過去を改変したことによって新しく妻となった沙也佳のキャラがまだ掘り下げられていません。お嬢様にしてはどうも無感情なキャラで、何かを秘めている気がします。きっと彼女にも彼女なりの思いがあるはずで、元春はそれに気づくことができるのか、新しい妻とはどのような関係を築いていくのか…。元春は基本ダメ人間ですから、きっとひと悶着ある気がします。 このドラマはイケメンジャニーズの大倉くんがダメ男を演じていることも見がいがありますが、なんといってもヒロインである広瀬アリスの魅力につきます。初回はその美貌も霞むくらい暴力的でヒステリックで、元春の嫌悪感に説得力を持たせていましたが、回想シーンでは元春をいちずに恋する女子高生で、元春がうっかり好きになってしまうのもわかるくらい可愛らしかったです。そして変わってしまった現代ではデキる女子行員で、認知症を患う親に寄り添う姿は人間的な強さも感じました。元春はそういう澪の人間性に惹かれたはずなのです。 着地点はなんとなく見えていますが、いったいどのように「そこ」へ持っていくのか、今後の展開に期待します。 『麒麟がくる』(承前) いよいよラストスパートに入ってきました。 初回から登場していた松永久秀が、こんなかたちで結末につながってくるとは思いもしませんでした。途中、対信長集団ヒステリーのひとりとなってしまった時はモッタイナイナーと感じていましたが、さすが吉田鋼太郎。松永といえば爆死with平蜘蛛が有名ですが、立ったまま一文字に腹かっさばく最期も凄まじい迫力でした。 松永が遺していったとんでもない爆弾は、光秀と信長の間で破裂して、大きく深い穴を作ってしまいました。家臣に叛かれ、朝廷の信頼も失い、帰蝶も去り、光秀にまで裏切られた信長の孤独は察するに余りあります。それが彼の暴虐をエスカレートさせていき、やがて本能寺へつながるというシナリオは実に納得です。 しかし、ここに来て増えつつある本能寺の変の真犯人。帝、義昭、家康らに、次々「YOU、信長討っちゃいなYO」と暗にささやかれ、人が良く真面目な光秀は八方塞がり。隠密を潜ませ光秀を追い込もうとする秀吉の動きも見過ごせません。後世に残されたいちばんの謎「なぜ光秀は信長を殺したのか」は、どうやらひとつには絞らずに描かれそうです。 …と、ここまで来て思うのは、やっぱりいろいろ、もったいないです。 そもそも没個性の光秀を主人公にするからには、逆に強烈な個性を持った人間をあわせておかないと、ストーリーが盛り上がりません。前半は道三(・信長・帰蝶)がいましたが、後半は登場人物が多すぎて物語も煩雑になり、逆にそれぞれの個性がしぼんでしまったような気がします。とくに秀吉は、佐々木蔵之介が「長身高齢でミスキャスト」という前評判を覆す怪演を見せているだけに、もっと登場時間を増やしてほしかったです。初登場時の、駒に文字を教えてもらう時の無邪気さと、今の出世欲の塊のような酷薄さの二面性は、今までさまざまな俳優が演じてきた秀吉とは異なる魅力を放っており、さすが演技派と唸らされました。光秀といえば、やはり秀吉との出世競争が想起されるだけに、このペアの対比性を楽しみたかったという気もします。もちろん、それは今までの大河でさんざん描かれてきた題材でもあるので、お腹いっぱいになったかもしれませんが。 歴史の年表で言えば、戦国時代の最後に麒麟をつれてきたのかもしれない家康も、本来ならばもっと菊丸とセットで登場していたのかもしれませんね。 駒はヒロインという立ち位置のようですが、光秀に麒麟の言い伝えを教えた以外はいまいち存在意義のつかめないキャラでした。「光秀に失恋して菊丸の片想いにも気づかず、義昭の妾っぽくなり薬屋という立場で要人に次々絡む」ということしか印象にありません。『太平記』の花夜叉のように、実は光秀の妹で兄の陰日向となって暗躍する…という立ち位置なら納得できたかな? それだと近衛家で育った伊呂波太夫の設定と被ってしまいますかね。伊呂波も同じ芸人の花夜叉と較べると都合よく動かされていた感があります。 血縁関係なく光秀に寄り添う駒のために熙子のキャラが薄くなり(しかも後半は他局ドラマの撮影のせいか出番が減るし)、糟糠の妻を失って精神的にもろくなる光秀の描写もあまり説得力がなかったような気がします。 うーん…苦言ばかりになってしまいましたが、最後はやっぱり、本能寺で対峙する光秀と信長ということになるでしょう。この作品において、いちばん輝いていたのは信長です。おそらく、いちばん心に残る本能寺になるはずです。令和の信長像を切り拓いた、染谷将太版信長の最期に注目です。 PR
はじめて「死」を意識したあの日から26年。
見逃していて、ずっと心残りだったドラマをようやく鑑賞することができました。 あの日の夜明け、あの体験したことのない揺れで「死ぬ」と感じたものの、実際には死にませんでした。神戸にも身近な人はいませんでした。 だから、忘れられない記憶といっても、神戸の人たちとのそれには乖離があるはずです。 しかし、渡辺あやの脚本は、いつも作品世界とこちらの心の距離をたやすく超えて届いてきます。 勇治と美夏がその日の神戸で失った幾つもの日常。命。心。 同じ日付のその日、神戸で取り戻した光。希望。明日への一歩。 自分自身も、いつの間にか深夜の神戸の街を歩いていました。変わり果てた街を思い出しながら、そして復興を歩んでいく街に思いを馳せながら。 もう決して元には戻らない。日常に戻ったようでいて、震災のなかった未来とは絶対に同じではない。だから、ここからまた始めなければいけない。この街で起きたこと、思ったこともすべて受け止めて、生きていかなければならない。美夏はおっちゃんと再会して区切りをつけた。勇治は友達でなくなった少年が幸せな家庭を築いているらしいと知ることができた。覚悟を決めて来たわけではない勇治は、まだ東遊園地には足を踏み入れられない。けれど、ずっと神戸に残してきた思いは拾うことができた。震災を他人事のように語るプレゼンに抱いていたわだかまりを、幾許かは解消して広島へ向かえるのだと思う。 5時46分。夜明け。 それは、あの日以来、勇治と美夏にはじめて訪れた朝だったのかもしれません。 渡辺あやの脚本に井上剛の演出はやっぱりよく合います。沈黙の夜闇に、街灯の光や窓明かり。それに照らし出されるふたりの表情の微妙な揺れ幅。そして紡ぎ出される言葉の数々は、心の蓋した奥底からつかみ出してきたような、生々しい傷だらけの感情。すべてが合わさってできあがった世界観だからこそ、こちらの胸を静かに、しかし激しく揺さぶってくるのです。 このドラマがはじめて放送されたのは、2010年1月17日。あの日から15年目のことでした。 神戸の街からは爪痕は去っていて、世間でも記憶は薄れかけ、もう二度とあんなことは起きないという思いが普通になっていて、作品中にも震災を体験していない人物からそれを匂わすセリフが出てきます。 自分自身もそう思っていました。 というよりも、起きてほしくないという願望でした。 すべての人の思いを裏切り、東日本大震災がやってくるのは、その翌年のことです。 自然は想像よりずっと残酷なことを知った世界は、2010年からがらりと変わってしまったけれど、 1月17日に抱く思いは、いつまでも変わりません。 あの日失われたすべての命に捧げる鎮魂の祈り。そして、傷つきながらも生きていかなければならないすべての命に、希望と安寧が訪れることを祈る日でもあるのです。
『教場』
物語全体に漂う緊迫感をうまく映像化していて、見ごたえはかなりのものでしたが、パンチは前回ほど効いてはいなかったように思います。これは前作で原作1・2のイイトコ取りをしていてやや薄めのエピソードしか残っていなかったことと、さまざまな事情で改変せざるを得なかったためかと思われます。 しかし風間教官の存在感たるや。放送前は「風間がキムタクはナイ! 絶対ナイ!」と全否定していたはずなのに、視聴後は「…いや、アリだなこれ」と感嘆させられ、小説を読み返す時は風間教官=キムタクでイメージしていました。そして今回もまた読み返してしまいました。さらにAmazonで『教場0』『風間教場』を買ってしまいました…。 今回メインキャストの扱いだった忍野ですが、忍野と堂本を女性に改変したせいで坂根をめぐる窃盗事件がちょっとよくわからない顛末になってしまいました。石上にしても、絵面に女性も必要なのはわかるのですが存在自体がやや強引でしたかね。 鳥羽の「蟻穴」は原作を読んだ時いちばんと言っていいくらい衝撃を受けたエピソードだったので、今回実写化されてうれしかったです。濱田岳もさすがの演技力でしたが、眞栄田郷敦の不気味さも印象に残りました。 杣と伊佐木の話は『風間教場』から使われていたようです。眉目秀麗な男女が揃うとついロマンスを期待してしまう(下衆)ので、ふたりのシーンは色気もあって良かったです。同じ窃盗をした堂本は退校で目黒は総代なのか? という疑問はあるにせよ…。 田澤と比嘉のエピソードも『風間教場』のようなので、早く読みたいです。田澤のキャラがドラマではいまいちつかめなかったので。 三浦貴大と佐久間由衣はもったいない使い方でした。伊藤健太郎の一件で撮り直しになったせいかな。 そしてエンドロール後の風間の過去。ハードボイルドの一場面のようでドキドキしました。鳥羽も絡んでいるようなので、次作も楽しみです。 『逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル!!』 「ムズキュン」なる言葉で評された連ドラは、どちらかといえばラブストーリーに分類されるものでした。そこがヒットした要因だと思いますが、原作はどちらかといえばお仕事漫画。みくりはかなり「小賢しい」し、平匡も何事も理論的に思考する人間なので、恋人同士になっても甘さより先に議論が生まれるような展開でした。そんなふたりですから、結婚しても妊娠しても建設的な対話を重ね、はじめての事態を乗り越えていきます。 いつもふたりで解決し合っていくみくりと平匡ですから、妊娠出産という一大イベントでも心配することはありませんし、自分自身からも遠いところにある話なので、百合ちゃんや平匡さんの同僚の北見さん・雨山さんのエピソードに共感するところが大きかったです。今回コロナという実際に起きた社会の変化をストーリーに組み込んだためか、そのあたりの話はほぼ削られていてちょっと残念でした。北見は誰が演じるのだろう、実際にも存在するであろうあのねじくれたキャラに説得力を持たせることができるのは中野太賀や矢本悠馬かな? と、勝手に想像をふくらませていたので。平匡さんに好意を抱きながらも相談相手にとどめる雨山さんのキャラも、相談LINEにやきもきして自分が答えちゃうみくりの感情もリアルでした。 スペシャルで展開が早かったこともありますが、妄想シーンが少なかったり登場人物の思いがあまり伝わってこなかったことも、ものたりない一因かもしれません。 あと感じたのは、「なにごとにつけても人は経験値でマウントを取りたがる」という人びとの習性を逆手に取った演出の巧みさです。「自分の時は、《夫の協力なしで乗り切った》《育休なんてありえなかった》《無痛分娩もなかった》」。で、それが「育休中なんだから母親ひとりで育てるのが当然」「産休育休は迷惑なことを自覚すべき」「無痛分娩なんて楽したいだけ」という後進への強制と否定になり、やがて呪いになるという…。 その呪いが存在する中で、みくりや平匡は「育休取得は《さも当然》かのように振る舞う」ことを意識していましたが、そもそも本人も周囲も「さも当然」でなければならないわけです。社員が休んだ時のリスク管理についての沼田さんの言葉には、10年以上前自分が会社員だった頃を思い出し、共感しすぎて首がはずれそうになりました。10年経っても社会はあまり変わっていないということかもしれませんが。 このドラマを観て「みくりはワガママ、恵まれている」という感想があることもまた、呪いが今も人びとをがんじがらめにしている証拠なのかもしれません。 もっともそう感じるのは、今自分が当事者になることはないからであって、かつて当事者だった時は自分もその呪いにかかっていたような気もします。 みんながみんな、みくりや平匡さんのような考え方をできればいいのにね。
『姉ちゃんの恋人』
良くも悪くも、岡田惠和らしい作品でした。 こういうほんわかドラマは、朝に観る分はいいけれど、夜にはちょっと面映ゆかったかな…。 それでも有村架純の可愛らしさと林遣都の演技力が、いってみれば平凡で予定調和のラブストーリーを見ごたえあるものにしてくれました。 仕事場で出会ったふたりが、プロジェクトを通して互いの人柄に触れるうちに好きになる。苦しい記憶を乗り越えようとするふたりを、家族も友も祝福する。優しい心の持ち主たちも、それぞれ幸せが訪れる。 展開はまるで少女漫画なのに、じんわり涙がにじんでしまう。ふたりの、みんなの未来に光あれと祈ってしまう。 人生は、悲しみと喜びのコラージュ。恋と愛はその彩り。もうモノクロになってしまったこの心にも、その温もりは届きました。 世界観が広がるミスチルの主題歌も、毎週の癒しでした。 『光秀のスマホ』 何これwwwww めっちゃ面白いwwwww もう大河ドラマで迫真の光秀を観ても、あのスマホ画面を思い出して吹き出してしまいそうです。 いやすごいですね。これを大河と並行で放送してしまうNHKって。この企画を通すNHKって。 フォロワー数で対抗心燃やしたり、裏アカと本アカを間違えて呟いたり、LINEFUMIスクショされて窮地に陥ったり、SNSあるあるだらけで笑いっぱなしでした。 画面にほとんど映らないところもこだわっているのがいかにもNHK。UnuTube(You→汝:うぬ)やらBushibookやら石垣つむつむやらFUMI未読スルーやら、戦国ニュースのいかにもな文体やら、秀吉のスマホなら出会い系アプリ(つれあひ誕生・ゴクシィ縁結び)やらRikyubucksやら…スタンプのクオリティも、いやはや、感服いたした。光秀スマホの信長からの着信音がドラクエの戦闘場面っぽいところもツボでした。 それにしても、本能寺の変はおねが黒幕であったとは…おそろしや。そりゃ一生頭が上がりませんな~。 ぶっちゃけ、大河より面白かったwwwww たぶん、こういう信長主従の「わかりやすい」関係性が念頭にあるから、『麒麟がくる』の一筋縄ではいかない人間模様にいまいち共感できないものを感じてしまうのでしょうね。
『おちょやん』
「エールロス」のせいで、最初はなかなかハマれませんでした。しかもいきなり口汚い河内弁ですし、これ河内以外の視聴者(自分は河内出身である)はついていけるのだろうかと心配になったのですが、案の定視聴率も『エール』に較べて落ちたようです。 それでも奉公が始まって舞台が道頓堀に移ると、登場人物も増えて背景も華やかになり、こちらもようやく頭の切り替えができてきました。ちび千代ちゃんの好演もあって、おちょやんのこれからにがぜん期待感が湧いてきました。 松竹新喜劇の看板女優がモデルの朝ドラながら、吉本芸人がテンポの良さを担っています。ほっしゃんや板尾はさすがドラマ慣れした貫禄で、この時代の役者らしい陰影もあり、杉咲花や成田凌を支える存在となりそうです。 一週目の雰囲気を重くした要因の典型的ダメダメ人間テルヲや栗子は、娘を奉公に追い出しながら自分たちは夜逃げして行方不明という、二週目にして早や評価が地に落ちてしまいましたが、のちのち彼らの大逆転はあるのでしょうか(『スカーレット』の常治なみの)。かわいらしかったヨシヲの行く末も気になります。 一平の幼少期は『スカーレット』のちび武志だったのですね。まったく気づかなかったのですが、成田凌に面差しが似ていて驚きました。 夫婦関係でいえば浪花千栄子の夫も『スカーレット』のモデルの夫と同じような(クズ)エピソードがありますが、やはりここは『スカーレット』同様ソフト化あるいはカットするのでしょうね…クズ平になる成田凌は見たくないし…しかも朝から…。 こんなご時世すらあかるく笑い飛ばせるような、『エール』とは違った角度から我々の背中を押してくれるドラマになるといいですね。 『逃亡者』 二夜連続、渡辺謙主演とあって、作り手の気概を感じる骨太なスペシャルドラマでした。 主人公が「逃げる」ドラマは最後まで捕まらないとわかっているので、そこまでどうやって緊張感を持たせるかが鍵だと思うのですが、このドラマはスケールの大きいロケと豪華な俳優陣、そして疾走感ある脚本で四時間あまりだれることなく一気に視聴できました。 動機に無理ないかとか、水深浅そうな渓谷に飛び込んだら死ぬだろとか、素性隠して犯罪者に面会できるんかとか、ツッコミどころは際限ないものの、こういう作品は細かいところを気にすると負けだと思うので…。 渡辺謙はさすがでした。細かいツッコミすべてを蹴散らすような迫力で、最後のひとことまで存在感がありました。 そのケンワタナベに対峙する刑事がトヨエツ。長い足で追いかける姿は画面映えしますし、たたずまいだけで威圧感があるので適役だった…と思うのですが、なんだか違和感がありました。もっとカッコよかったような…。昭和みたいな髪型だからか? Gパン刑事のせいか? 特別広域捜査班の面々もそれぞれキャラ立ちしていて良かったです。 『麒麟がくる』(承前) コロナのあおりをもっとも受けた作品のような気がしてなりません。 もともと朝ドラはこぢんまりした世界観の中でまったり描かれるものですし、多少制約を受けても話が削られても大筋の展開に影響はなかったでしょうし、しかも『エール』はそのテーマと社会情勢をうまくマッチさせて表現することに成功しました。 しかし大河ドラマはそうもいきません。とくに今年は戦国時代。次々登場する豪華な出演者、大勢入り乱れての合戦シーンは戦国大河には欠かせないものです。 コロナによる休止を経て、あきらかにスピード感がなくなりました。 売れっ子ばかりの俳優陣のスケジュール調整の困難さ、大人数でのロケ撮影の中止は想像がつきますし、さらに主要人物のコロナ感染もあって、脚本は大幅に書き変えざるを得なかったはずです。 それは理解できるのですが、流れがあまりにも雑すぎて物語に集中できません。 『太平記』で室町幕府の始まりを書いた池端俊策は、この『麒麟がくる』で室町幕府の終わりを書きたいと言っていたので、当初から予定されていた展開なのかもしれませんが、当初はものめずらしいと感じていた幕府や朝廷のエピソードも、要人が次々登場しては駆け足で消化されていくので、ほぼ印象に残りません。「この人いる?」と感じる、わずかな登場だけの人物もいます。おそらく、当初からキャスティングされていた人物をさっくり削るわけにはいかないのでしょう。そうなると出演時間を減らされるのが主人公。すっかり存在感がなくなっています。 明智光秀が主人公である以上、最終回は本能寺の変のはずで、そこに至るまでの信長との関係がどう描かれるのか、光秀と信長がはじめて対面した時から興味を惹かれていました。しかし今のところ、ふたりの関係に進展はほぼありません。というか、いつの間に光秀は、敵将が言うように信長の重臣になっていたのでしょうか(家臣になることを断ったのは憶えている)。こういうあたりが「雑」に感じる原因です。 他にも、要人を登場させるためのまさに「駒」になっている駒の扱いも雑ですし、戦嫌いでヒステリックになっている義昭の変心(滝藤賢一の迫真の演技はさすがですが)も雑です。三淵・細川兄弟なぞいつの間にか消えていますし(細川はコロナ感染のせいもあると思うが)。 並行して観ている『太平記』と較べても、コロナ前の『麒麟』と較べてさえもあまりにも残念な部分が多すぎて、コロナさえなければ! と口惜しくてなりません。 まあ、本能寺の変が気になるので最後まではがんばって観ますが…。 |
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