ジャケットには犯人探しを煽るような言葉が書かれていますが、それが主題ではありません。「誰が」という点では、キャスト的にも立ち位置的にもすぐ(なんなら登場した瞬間に)目星をつけられますし、「なぜ」殺したのかについてはいっさい語られません。むしろ、直接手を下していない人間たちが、彼女を死にいたらしめたのは自分だと悔やみ、苦しみ続けます。
人は、時に自分ではどうにもできないことに直面します。亜弓の死もそうですし、勝美の病気もそうです。勝美が妻を救えなかったことも、美波がいじめにあったことも、郁男が亜弓殺しの犯人と疑われたことも、そして郁男の依存症も、もはやみずからの力だけで避けられるものではありません。
人生はそういう荒波の連続です。
だから人は凪を待つしかないのです。
夏の、海の見える町。美しく映し出されるはずのその景色は、どこか不穏で重たい空気に包まれています。
かつてこの町は津波によって破壊されました。多くの命が奪われました。あれから世界は変わりました。美しい海を美しいと感じてはいけないような、どこか後ろめたさを憶えるような、そんな世界になりました。
郁男を演じた香取慎吾の纏う空気感に通じるものがあります。
トップアイドルグループの一員として、さらにその中の末っ子的存在として、香取慎吾はいつも光り輝いていました。
しかしそのあかるさの奥深く、誰も知ることのできない場所にある暗い塊のようなものを、その笑顔の下に感じていました。さまざまなバラエティやコメディドラマの「慎吾ちゃん」がスポットライトを浴びる一方、『聖者の行進』や『ドク』の「香取くん」が見せる脆くあやうい繊細さは、まるでアイドルとしての彼の背後にできた影の世界に生きるもうひとりの彼のようでした。その二面性こそが、香取慎吾の魅力なのかもしれません。
そして郁男という男も、ギャンブル狂でヒモで心弱いダメ人間でありながら、恋人の娘である美波に慕われる人懐こさもある、二面性を持った人間です。
そして白石和彌監督は、彼の奥深くにひそむ暗い塊を容赦なくひっぱり出します。次々と降りかかる禍にもまれ、堕とされ、苦しむ郁男の姿は、いつしか香取慎吾と重なっていきました。彼にしか演じられない役柄だったと強く感じます。
郁男はどうしようもない男です。勝美が命のように大切にしていた船を売って作ったお金さえ、ギャンブルに溶かしてしまいます。しかし因果応報という言葉は、この町にはありません。もう、なくなりました。すべてはあの日に消え去ったのです。
それを知る勝美は、絶望する彼に手を差しのべます。娘の亜弓がそうしたように。かつて妻にそうされたように。
運命のすべては海のようなもの。荒波は去り、やがて凪がやってくる。
郁男の凪は、海を臨むその家にありました。
今は静かなその海も、いつまた牙を剥くやもしれません。それでも人は希望を失わず、今日も海に抱かれます。
何もかもが不確かなこの世界で、生きていくために。
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