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いかに寝て起くる朝に言ふことぞ昨日をこぞと今日をことしと(小大君)
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『オードリー』
朝ドラあるある:ヒロイン迷走しがち。
朝ドラは半年という長丁場で人の人生を描くのですから、夢や目標が変わっていくのも当然といえば当然のこと。しかしこういう展開がハマるかハマらないかが、作品の価値を決めると思っています。
この作品も女優→女将→映画監督と、美月の人生は都度変化していきました。しかしその原因は大京の経営難であったり、滝乃の結婚であったり、自分自身の選択というよりは環境に振り回された感もあります。さまざまな困難を乗り越え、最後に自分の夢をかなえるという王道ストーリーではあるものの、その困難は主に育ちの複雑さや滝乃という強烈な存在。ありふれていない設定が新鮮で、なんだかんだ最後まで飽きずに観てしまいました。
滝乃の存在感はさすがでした。よくよく考えてみると、他人の娘の美月を我がものにするスタート地点から、昔の恋心が再燃してあっさり椿屋を捨てるところまで、いつもいつも独善的でこれっぽっちも共感できない生き方なのですが、なぜか嫌いになれない。これも大竹しのぶの演技力のなせるわざなのか。滝乃さえいなければ、美月も春夫も愛子も梓も、きっとその人生はおそらく良い方向に大きく変わっていたでしょうに、滝乃の最期のシーンでは悲しみの念すら湧いてきました。
当初はその演技力に疑問を抱いていたヒロインですが、最後は中年になった美月のこれまでの人生の重みと人間味を感じることができました。以前の朝ドラはこんなふうに、若手女優の成長譚でもあったよなあ…と懐かしく思います。
堺雅人と佐々木蔵之介がこんなに重要人物とは思ってもいませんでした。佐々木蔵之介なぞ最後は一人二役を演じる離れ業。だからこそ一茂がもったいなかったです。なぜ一茂を…こんな大事な役で…。せめて虎の俳優さんでも良かったのに…。
ドラマ全体としては、さすが大石静脚本だなと感服しました。

『虎に翼』
終盤は星家の確執と原爆裁判に尊属殺人、あわただしい展開が続きました。そこに宙ぶらりんだった美佐江のエピソードを回収しなければいけなかったので、やや駆け足に過ぎ去ってしまったように思います。
原爆裁判や尊属殺人は、短い時間でしっかりとその本質を突いていたと思います(山田轟法律事務所がこの歴史的裁判両方に関わったというのは、まあ、ドラマだから仕方なし)。被爆者や美位子の心情も丁寧に描かれていましたし、法廷で「クソだ!」と言い切ったシーンは拍手喝采。尊属殺人に寅子は関わってはいませんでしたが、戦後の法曹界を描く以上、どうしてもこの裁判を避けることはできなかったのだろうなと感じます。
ただ、現在進行形で決着のついていない問題があります。寅子たちが守ってきた少年法の理念。戦後間もない頃、貧しさから罪を犯す子どもたちを救ったのは「愛」でした。しかし終戦から年月を経て、戦争を知る世代と知らない世代のギャップは広まり、少年法改正の動きも強まりつつありました。
みずからの手は汚さず、人を操っていく美佐江。寅子は彼女を恐れて「愛」を届けられなかったことを悔やみ、その娘であり美佐江と同じ雰囲気を纏う美雪には正面からしっかりと向き合い、みずからの思いをぶつけました。寅子の言葉を受け止め、施設暮らしで改心したかに見えた美雪。「愛」の理念の完全勝利かと思いましたが、しかしその後の寅子と音羽の会話は、美雪がまた罪を犯す可能性があることを否定してはいませんでした。
美雪の涙は嘘ではないでしょう。しかし、美佐江や美雪のようにサイコパスの因子を持った人間はおそらく一定数存在して、どれだけの愛を持ってしてもその因子をかき消すことはできない、そんな愛の無力さを含ませているようにも感じてしまいました。
寅子と美雪の対峙が感動的であったからこそ、その含みに消化不良感が残ってしまったのですが、現実と照らし合わせても、「愛」がすべての人を救えるなどというのは傲慢なのかもしれません。もちろん、ここでの主題は音羽たち若い世代が新時代の家裁を作り上げていく、そのバトンタッチを寅子が行うという多岐川の理念の継承なわけですが。
新潟編まではじっくり描かれていた寅子の人生が、最後はバタバタ終わっていってしまった感が少し肩透かしでした。一年くらいかけてゆっくり観れば、味わい深かった作品のように思います。


『海のはじまり』
なかなか賛否両論激しい最終回ではありましたけれども、やはりこのドラマの焦点は人生の選択であったのかなと思います。
最終的に、夏は海とともに生きる道を選び、弥生は選びませんでした。誰かのため、ではなく、自分のため。「犠牲になった」とされている夏も、自分自身が選んだ人生なのです。水季と交際したことから海の父親になることまで、すべて自分で責任を持って選ばなければならない、それが人生。そして選んだ結果はすべて取り返しがつかない、それが人生。
水季とてそうです。意地を張らずに実家で暮らしていれば病院にも通えて、海と離れることはなかったのかもしれない。死んでしまえば選択肢を誰かの手に委ねなければならないのですから。
弥生もあんな元彼とさっさと別れていればつらい思いもせずに済んだだろうし、自分の子を産む時のことを考えずに海の母親になる道を選んでいたかもしれません。
人生はすべて選択と、偶然と必然のくり返し。
だからこそ偶然と必然に際して安易な選択はしてはならないし、選ぶ時はいつも自分のしあわせを考えなければならないのです。その選択は時に誰かを傷つけるかもしれない。けれど、自分をしあわせにできるのは、結局最後は自分だけ。
そうでなければこんな苦しみばかりの世界、生きていけない。
もっとも、このドラマはそんな説教くさいことを主張はしません。ただ、誰かが自分の人生を自分の手で選んでいく。ちょっと非日常な状況ではあるけれど、自分のしあわせを一生懸命考えて自分の道を決めていく、描かれたのはそんなどこかの誰かの日々。ただそれだけなのですが、ちょっと立ち止まって自分の人生を振り返る、そんなきっかけになったと思います。

『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』
笑えるのに泣ける。泣けるのに笑える。
感情の起伏が激しい45分を毎週、岸本家と一緒に過ごしていました。
父の早逝、弟はダウン症、母は車椅子で祖母は認知症。その「設定」だけで「かわいそう」とレッテルを貼る世間に対し、七実はその筆(指?)で抗い続けます。こんな「おもろい」家族がいるものかと。
七実は、ずっと父への最後のひとことに縛られていました。「死んでまえ」と言ったら本当に死んでしまった父。父がいれば、七実は家族のためがむしゃらに頑張らなくても良かったのかもしれない。そんな感情が爆発するシーンは、七実のこれまで抱えてきた苦しみが伝わり胸が締めつけられました。
しかし父はずっと七実を、岸本家を見守っていたのです。それを知っていたのは草太だけでした。岸本家から独立する日。ゆく道の先を見つめる草太の強い意志を秘めた両目と、息子の成長を見守る父親のあたたかいまなざし。それはずっと寄り添ってくれていたパパから卒業する日でもありました。
七実も、ひとみも、耕助がずっとそばにいてくれたことを知ります。認知症の芳子もまた、草太の中に耕助を見つけます。岸本家は、五人でひとつ。全員そろって、「おもろい家族」たりえるのです。
岸本家を「おもろい家族」と言ったのは、耕助が最初でした。その遺志を継いだ七実。家族をずっと笑わせ続けることを決意した七実は、耕助の愛車ボルちゃんを買い戻します。そして家族を乗せて、おもろい道を走り続けるのです。これからもずっと。
河合優実を知ったのは『不適切にもほどがある!』でしたが、それより前にこの作品の主演に抜擢した制作陣の眼力はすごいと感嘆しました。高校生から中年まで、等身大の七実を演じきっていました。てっきり関西人かと思っていたら東京都出身なことにも驚き。関西弁でセリフを言うだけでも難しいであろうに、ツッコミの間の取り方が完璧でした。
草太役の子にも泣かされましたが、坂井真紀・錦戸亮演じる両親の演技も素晴らしかったです。親は同性・異性の子に対し、愛情の量は同じであっても接し方が微妙に異なるものです。異性の子には優しさや包容力が先に来て、同性の子は友達のように距離感が近い。その違いを描きわけているドラマは家族ものでも今まであまりなかったように思います。岸本家を身近に感じさせる空気感を作り出す演出も特筆ものでした。
ほぼコメディタッチながら緩急のついた脚本と演出もクオリティが高く、まれにみる傑作でした。どうしてリアルタイムで見なかったのだろう…。再放送してくれて本当にありがたかったです。





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『降り積もれ孤独な死よ』
薄気味悪い死体遺棄事件で幕を開けた物語。薄暗い映像が効果的でした。謎がひとつひとつ明かされていくと同時に幾つもの命が失われ、悲惨な展開ではありましたが、謎解きものでいえば中盤までは面白かったです。灰川の過去編もドラマチックで、虐待に遭った子どもたちの養育を始めるにあたって説得力のあるものでした。出演時間が少ない割に小日向文世の存在感はさすがでした。
俳優陣は総じて良かったと思います。静かに感情を爆発させる成田凌、ミステリアスな空気感を作り出す吉川愛は魅力的でしたし、カカロニも案外いい味を出していたと思います。
終盤、舞台が現代になってからはトーンダウンした感がありました。ことの発端である美来の失踪事件は燈子にあまり共感できないままでしたし、瀬川や健流の母の設定もやや強引に感じました。たぶんドラマオリジナルの展開だったのでしょう。虐待の連鎖の問題など、心に響くメッセージがあちこちに残されていただけに少しもったいない最終回でした。原作を読んでみたいです。

『海のはじまり』(承前)
大人になるということは、選択肢が増えていくということ。
そのために、あらゆる選択肢の中から最善のものを選ぶ力を身に着けるのが、子ども時代。
この物語は、大人も子どもも自分の生き方を選んでいく、選択肢ばかりの日常が描かれています。水季が海を出産したこと。夏が海の父親になる道を選んだこと。弥生が海の母親になることを選ばなかったこと。たくさんのものを見て経験を重ねてきた大人は、子どもの世界がたった数年間で構築されたものでしかなく、選択肢が少ないことを忘れてしまう。選択肢の少ない海は、無数の道を持つ大人の選択を完全に理解できない。かつての夏がそうだったように。それでも子どもは、まわりの大人たちが考えて出した結論であることを知っているから、我慢して、気を遣う。それに大人は目を瞑る。かつての自分を忘れてしまっている夏も、本心を隠したままの海と暮らし始める。
彼らのひとつひとつの選択は、誰もの共感を生むわけではありません。
ドラマという仮想空間には、困難な現実を忘れるために、それとはかけ離れた自分の理想が広がっていることを期待してしまいます。誰も傷つかず、誰もが優しく寛容で、誰もが幸福である世界であることを疑わずに観ると、この作品は受け入れがたいものになるでしょう。
このドラマは理想的な仮想空間ではありません。誰もが迷い、傷つき、誰かが正しいと選択した道のその裏に誰かの犠牲が必ずある。犠牲になった者は、悪人ではないしなりたくもないから面と向かって糾弾できない。けれど傷ついたことは知っておいてほしい。だから言葉にわずかな棘を含ませて、相手に後ろめたさや迷いを起こさせる。
リアルで平凡な人間の心理があぶり出されて、ちょっとしんどい。
それでも夏も、弥生も、海も、誰もが自分のしあわせのために自分の道を選んでほしいと願わずにはいられない。
自分をしあわせにできるのは自分だけ。子どもも大人も、選択肢が多くても少なくても、それだけは変わらないはずなのです。





『虎に翼』(承前)
終盤になって、寅子のまわりは急にあわただしくなりました。
航一との再婚、星家の家族との軋轢、相変わらずにぎやかな猪爪家。
そんな中、流れる時間とともに描かれていたのは原爆裁判。
思ったより割かれた尺は短かったですが、それでも作り手のメッセージは伝わってきました。
誰も責任を問われない重大な犯罪行為、それが戦争。人類史上最も凶悪な兵器である原爆によって苦しみ続ける被爆者が起こした国家への賠償請求。寅子は裁判官として、よねたちは弁護士として、彼らの思いに向き合います。
原告側が訴えを起こしたのは昭和30年。『夕凪の街 桜の国』の皆実が十年前にあったことに向き合おうとした矢先、原爆症で亡くなったのも昭和30年でした。
竹中記者は「そろそろあの戦争を振り返ろうや」と言っていましたが、原爆投下・終戦から十年が経ち、その間、ドラマの中でも寅子たちの生活は戦争の色も残らない、満たされたものに変化していました。つらくて苦しい記憶は忘れたい。そんな誰しもの思いが、被爆者を社会の片隅に置き去ってしまうことになったのかもしれません。
原爆が描かれる時「苦しみ」「悲しみ」があるのはもちろんですが、昭和生まれの自分が学んだのは被爆者たちの「怒り」でした。広島へ修学旅行に行く際『原爆を許すまじ』という歌を習いましたが、非人道的兵器の根絶を願う詩の陰に、どこへも向けることのできない「怒り」もあると感じたのです。時代が流れ、いつしかその「怒り」はなくなっていきました。昭和から平成初期にかけては現在進行形で多くの被爆者たちが生きていた時代だったからなのかもしれません。
汐見が毅然と読み上げた原爆裁判の判決文は、その「怒り」をひさびさに感じたメッセージでした。
誰にとっても苦しい裁判でした。寅子たち裁判官も、よねたち弁護士も、一度は法廷に立とうとした原告の女性も、苦しみ抜いた8年間でした。国側の代理人も、法学者も、被爆者の現状に向き合って情が生まれないわけがありません。しかし法律は絶対ですから、被爆者に賠償請求権を認めることはできませんでした。
しかし法が無力であってはならないのです。主文後回しで読み上げられた判決理由は、原爆投下は国際法違反と断じ、被爆者たちの心情に寄り添い、彼らを救済しない政府を批判したものでした。途中で席を立とうとした記者たちも座り直して聞き入らざるを得ない、圧巻の4分間でした。実際の判決文に沿ったものだそうですが、これほど素晴らしい判決文だったことは恥ずかしながらはじめて知りました。この数年後、被爆者に対する特別措置法が制定されます。裁判には負けたけれど、寅子たちが作り上げた判決文に込められた被爆者たちの「怒り」は、国を動かすことに成功したのです。
判決後、それぞれの感慨にとらわれる法廷内。よねの涙は、決して敗訴したからではないし、勝訴側の反町もうつむいて席を立てずにいました。裁判の勝ち負けはついたけれども、誰もが原爆投下の責任を誰にも問えない敗戦国の人間なのです。もはや戦後ではないと言われて久しい昭和38年。しかし未来は過去の戦争を無かったことにはできずに、これからも続いていくのです。
原爆裁判から60年経った今もなお、その道を我々は歩んでいることを、決して忘れてはいけない。そんなことを改めて思い知らされた回でした。



『海のはじまり』
『silent』のスタッフで制作されただけあって、『silent』の優しく切ない空気感がよみがえってくるようです。
脚本家が「目黒蓮主役で月9ドラマを書いて」と依頼を受けたそうですが、夏のキャラクターは目黒蓮にぴったりです。優柔不断で受け身になりがちな心弱さ、彼女が妊娠したとわかって産む選択以外持っていないある種の不器用さ、幼い海にも真正面から向き合う生真面目さ。類を見ないイケメンなのに、どこにでもいそうなひとりの平凡な青年に見えます。
水季の変化に気づかず彼女の嘘にあっさり騙されてしまう若さゆえの失敗は、胸がギュッとつかまれました。大人になれば言葉の裏を探ることも相手の立場になることもできるけれど、二十歳そこそこの学生にそんなスキルがあるはずもなく。
そのまま終わっていたならば、ひとつの青春時代の思い出のはずでした。
しかし彼女は知らないところで自分の子どもを産んでいた。名前は海。彼女が大好きだった海の名前。
初回の放送後、「ホラー」という感想がSNSで上がっていたことが話題になりましたが、「ホラー」とまでは思わなくとも、正直水季の選択には納得できませんでした。
おそらく受診時に何かしらあって手術をせず、父親になると言うであろう夏を突き放し、ひとりで産むため姿を消したところまではわかるのですが、それならば夏の存在は最後まで隠すべきではないか。そしておそらく自分の命が長くないことを知り、さほど遠くに住んでいない夏の居場所を海に教えたのでしょうが、もし海と夏が接触した時に夏が家庭を持っていたら互いに苦しむことになるであろうに、水季の行動はあまりにも自分勝手すぎやしないかと思ったのです。
確かに人は自分勝手なものです。登場人物の皆それぞれ、自分勝手な面がほのめかされます。海の祖母である朱音も、何も知らなかったことをわかっていながら夏に事実を突きつけ、海に懐かれる弥生を見て心穏やかにはいられず厳しい言葉を投げかけてしまいます。傷ついた弥生に「楽しかったね」としか言葉をかけられない夏も、「楽しかった」で終わりにして弥生をあくまで外野に置こうとするのは、弥生の心を慮っていないある意味自分勝手な言動です。そして「外野」から水季のいるはずだった場所に入り込もうとした弥生もまた、無自覚ながら自分勝手な人間なのです。
他者と自己の交わりによって生じる複雑な感情を必死に消化しようとする人びと、その生きざまがそれぞれ心に響いてきます。そしてこの物語の主人公は夏ですが、朱音と弥生の存在感が際立っています。水季も含めて、生と死をその身体で生み出すことのできる女性の性を描きたいのかなと感じます。

『降り積もれ孤独な死よ』
漫画で無料の部分だけを読んだら非常に面白く続きが気になっていたので、ドラマ化されると聞いて楽しみにしていました。
おどろおどろしい雰囲気は同じ日テレ系の『ボイス』を思い出します。登場人物はやさぐれた主人公やきりりとした女性上司、不思議系美少女などステレオタイプなキャラクターばかりですが、大量殺人事件の犯人は誰なのか、屋敷にはどんな謎が隠されているのか、ミステリードラマとして楽しんでいきたいと思います。

『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』
BSで放送された当時、評判が良かったので見逃したことを後悔していました。今回の放送はやや短縮された編集版のようですが、カットされていることに気づかなかったほど満足しています。
学校では三軍、父は死亡、弟はダウン症、母は車椅子。はたから見れば七実の現状はかなりのハードモードで、いくらでもお涙頂戴にできそうですが、七実の日常はカラッとしています。放課後に彼氏とデートしたり、一軍女子をSNSでハメたり、嘘泣きで遅刻を見逃してもらったり、大道芸人を目指して英語を猛勉強したり、それなりの青春を送っています。
しかし、それでも時には感情が爆発してしまうこともある。下半身が動かなくなり未来に絶望する母を前に、自分が手術の同意書にサインしなければ母が苦しむこともなかった、一緒に死のうと泣き出す七実は、しっかりしているようでやはり十代の女の子でした。笑ったり、泣いたり、現実に向き合ったり逃避したり、家族に怒ったり優しくしたり、普通の十代はそんなもの。七実の現状は普通ではないのかもしれないけれど、七実はあくまで普通なのです。
普通に生きる女の子の話なのに、なぜか涙があふれてしまう。
やっぱり「普通」はいとおしいものなのです。
ドラマや創作ものは非日常であるからこそ面白いはずなのに、心揺さぶられるのはいつも普通に生きる人びと。「普通」とは、自分に素直に生きることだと思います。それこそが本当はいちばん難しいのかもしれません。




『アンメット ある脳外科医の記録』
最終回まで毎週目が離せない作品となりました。
その理由は、ハラハラドキドキでもなければ、ズキズキキュンキュンでもありません。
記憶障害を抱えながらも医者として前を向くミヤビの生きざまが丁寧に、真摯に描かれていたからです。彼女が支え、時に支えられた患者たち。静かに寄り添う三瓶。厳しくもあたたかく接する星前や津幡など病院の仲間たち。案じながらも見守る大迫や綾野。ミヤビを取り巻く人びとひとりひとりの存在感もきわめて鮮やかで、さしたる説明がなくても自然と物語に入り込み同じ視点で展開を追えるその感覚は、まさにミヤビの日記を読んでいるかのようでした。
その没入感は最終回がきわめて顕著でした。病状が進行する中、残り少ないかもしれない時間を三瓶と過ごすため、自宅に戻ったミヤビ。手持ちカメラがその日々を追います。ミヤビが焼き肉丼を、三瓶が朝食を作る。ともに口に運び、なにげない会話をかわす。泣きながらスケッチした三瓶の寝顔。そしてある朝、脳梗塞が完成し、ミヤビは目を覚まさなかった。三瓶は冷蔵庫に残ったヨーグルトを食べながら星前たちを待つ。——
ミヤビはいつも大きな口で美味しそうにご飯を味わっていました。生死をテーマにしていた『監察医 朝顔』でも、食事のシーンは印象深く描かれていました。食べることは生きること。この作品においても、その一本の大きな太い幹が真ん中を貫き揺らぐことはありませんでした。
三瓶と初めて出会ったアフリカの地で、死を意識せざるを得ない環境においても、ミヤビは食べること、すなわち生きることの大切さを忘れませんでした。最後の最後で描かれたそのシーンが最初につながっていることに気づいた時、構成力の素晴らしさに涙があふれました。
そしてミヤビの今日もまた、明日につながりました。三瓶の、そして仲間たちの尽力によって。
病気の兄のことを長い間気に病んでいた三瓶の心を救ったのはミヤビでした。三瓶の中に灯された明かりは時を経てミヤビの心に戻り、互いは互いを照らし合う光となりました。それは手術室の仲間も同じです。脳外科医として復帰したミヤビが目に焼き付けた手術室の景色、三瓶がミヤビの手術後に目にした光景。手術室のひとりひとりがまた光でした。手術台の上の無影灯のように、光が集まれば影はなくなるのです。
生きること。つながること。光と影。舞い散る記憶。
物語の中で落とされてきたさまざまなかけらが、最後に縫い合わされ、一枚の大きな布となり心を包み込みました。
まだまだ、こんなドラマにも出会えるのだと感嘆の思いしかありません。
無駄のない脚本、余計な部分を削ぎ落した演出。そして俳優の繊細な演技。すべてが完成され尽くした珠玉の作品でした。

『虎に翼』(承前)
現代に生きる我々は、過去の人びとが拓いてきた道をなんとも思わずに歩いています。どれだけの人が道半ばで心折れ、あきらめ、涙を流したか、それでも立ち向かい続けた人たちの苦難はいかほどであったのか、想像することはできても、完璧に理解することはできません。
「穂高先生を許せない寅子」の言動に釈然としなかったのは、そんな感覚の違いもあったのかもしれません。
穂高先生は優しく寛容でした。女性の立場が弱かった戦前において、女性に学びの場を提供し、寅子の父の弁護も引き受けてくれました。
ただ、その寛容さに違和感を憶えていたことも確かではあります。
法廷劇で騒いだ男子学生を咎めずただ見ていただけだったこと。妊娠した寅子が倒れた時子どもの健康を持ち出して寅子の怒りを収めようとしたこと。戦後に再会した際紹介した仕事が家庭教師だったこと。穂高先生の寅子への優しさはどこかズレていたのです。
寅子は本当は一緒に考えてほしかったのかもしれません。女性が法曹界で生きていくにはどうすればいいのか。めずらしい存在ではなく、同じ弁護士として扱ってもらうにはどうすればいいのか。女性であるがゆえに降って湧いてくる仕事をどうさばいていけばいいのか。妊娠したことを隠さずに仕事をするにはどうしたらいいのか。「初めて」には答えがありませんから、寅子が考えて導き出さねばならず、そしてそれは後進の道しるべにもなるのです。今自分が石を穿たねばならないと挑んできた決意を「今は何も為せないただの雨垂れ」扱いされ、さらにはその石に向かえと背中を押してくれたはずの師までが「ただの雨垂れ」だと自虐するのですから、寅子からすれば梯子を外された怒りが生まれるのも無理はありません。
ただ、ドラマの世界を俯瞰する視聴者からすると、物語の主役は彼女だけではありません。封建的な婚家のせいで法律の道をあきらめなければならなくなった挙句、唯一の希望だった末っ子にまで裏切られた梅子。苦労を重ねようやく夢に近づきながら、自分の信念を曲げなかったがために試験に落ちてしまったよね。生きるためにみずからの国と名前を捨てなければならなかった香子。華族に生まれたばかりにいらぬ苦しみを負うはめになった行方知れずの涼子。彼女たちと較べると、やっぱり寅子は恵まれている面はあると感じてしまうのです。知性のある両親に理想的な情操教育を受けて育ち、理解力も包容力もある理想的な夫を得て、試験と重なってしまった生理痛が寅子の小賢しさの隠れみのになって弁護士にもなれました。最初は必死に頑張る寅子を応援していたものの、ちょっとモヤモヤしてしまうのです。過去の朝ドラでも茂やマッサンや万太郎など、仕事に邁進しあとは妻におまかせの人間が何人かいました。「そういう時代だから」で見逃されてきた自分勝手が、寅子にはどこかひっかかる。この構造は何なのだろう。
令和になる以前、女性が世界的な大仕事を成し遂げ立派な母親と報道された途端に噴出したSNSでの批判に驚いたことがあります。「仕事中心で子どもがかわいそう」「夫が苦労して支えたおかげ」。しかも女性の意見ですからさらにビックリ。え? 男性が同じ功績で報道された時そんな意見あったっけ? なぜ女性の時だけ…? それって嫉妬なんじゃ…? というかそもそも男性の時は立派な父親なんて言われてたっけ? こんな批判が生まれるのも殊更女性性を論う報道のせいなのでは?
人はなぜかすべてをカテゴライズし対立構造にしたがります。「仕事vs家庭」「子持ちvs子なし」「男vs女」…挙げていけばキリがありませんが、世の中を単純に区分けすることで自分もどこかのカテゴリーに存在しているという安心感を得たいのかもしれません。
とはいえ、寅子にモヤモヤを抱くのは、優未や花江の複雑な表情を描写しているからで、あえてそういう感情を抱かせるような演出になっているからです。寅子が正しいとか誤っているとかではなく、社会に出る女性につきまとう困難は昔も今も変わっていないということを思い知らされます。生理休暇がこの頃から存在し、そして取得できない状況は今も同じであるように。
今後寅子が法律に、そして家族にどう向き合い、どう生きていくのか、単純な対立構造に収まらない痛快な生きざまを見せてくれることを期待します。
余談ですが、お月のものの時の寅子の演技は実に秀逸でした。長らく忘れていた、痛い重い痛い辛いもう死ぬ、あの感覚が下腹部によみがえってくるほどでした。昭和生まれの私は「生理は恥ずかしいこと」「病気じゃない」と教わったので、生理痛ごときで休むのは怠慢だと思い込まされ這いつくばって通学通勤していました。その感覚が変わりつつあるのは良い傾向だと思います。あとは生理休暇を有給にして気兼ねなく取れる環境になれば良いのだが…。




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