『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のラース・フォン・トリアー監督のため、一筋縄ではいかないだろうなと思ってはいましたが、本当にここまで予想の斜め上を行く作品とは思いもしませんでした。
まず、セットは倉庫のような広い空間の床に引かれた白線だけ。ドッグヴィルという架空の町の住人たちは、存在するはずのドアを開け閉めし、仕切られているはずの空間でそれぞれの生活を送っている風景が描かれます。舞台上で繰り広げられるお芝居ならありですが、なぜ映画作品でわざわざそんな作りにしたのか。閉鎖的な田舎町にありがちな、プライバシー皆無の監視社会を可視化したわけではありません。むしろ、屋内で行われた野蛮な行為が壁を挟んでいるため誰も気づかない(しかし鑑賞している者からすればオープンなそのまわりで人びとは平然と普段の生活を行っている)という異様な光景には唖然とさせられます。 とにかく最初から最後まで異様です。 後味が悪い、二度と観たくない映画ナンバーワンと称される『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も、小さなコミュニティで生きる人びと、蓄積された信頼が崩れ去っていく悲しみ、艱難と希望を糾い続けた人生の終わりの瞬間の呆気なさ…等を感じたことから、この作品に較べればまだ直球だったと思います。 観終わったあとに残るこの感情を、なんと表現したら良いのかわかりません。 この映画の根本にあるのは、最後の父娘の会話から、寛容と傲慢をテーマにしているようです。理不尽な扱いを受けたはずのドッグヴィルの人びとに対してゆるしを求める娘に対し、ギャングのボスである父はそれを傲慢だと一刀両断します。このやりとりはキリストの精神を思わせる宗教的な意味合いも込められていたとは思いますが、結局町ごと全滅させてしまうグレースの変心もそれまでの日々を思えば人間としては至極当然の決断に過ぎず、なぜこれほどまでに長い時間をかけてグレースの寛容を否定するのかよくわかりませんでした。 日本人である自分はキリスト教は三浦綾子でしか学んでいませんし、生活からは遠くある精神です。我欲にまみれた矮小な人間にとって、鏡うつしの人間である相手をゆるし、ゆるし続けることは難しい。むしろ相手が傷つくことを望み、そうなれば因果応報という言葉で納得させられます。相手をゆるせない自分を見つめるためにキリストが存在するような気がします。ですから、ゆるしの精神を主張するグレースを傲慢と言うボスの言葉のほうがしっくりきました。ただグレースの言葉はただの理想論ではない、教義上の信念であることも理解できます。 外国のことは知りませんが、日本よりもずっと宗教が身近な存在であるヨーロッパで生まれながら無神論者の親に育てられた監督にとって、宗教が遠い生活を送ることは周囲との乖離を呼び、成長過程において一種のわだかまりとなっていたのではないでしょうか。寛容の精神を傲慢と否定することは簡単ですが、ただその屈曲した否定の表現にコンプレックスのようなものが見え隠れしたのは邪推でしょうか。 グレースがずっと大切にしてきた寛容の精神が否定された結末はバッドエンドなのか、我欲にまみれた矮小なドッグヴィルの人びとが成敗されたことに納得感が催されて流れるエンドロールはハッピーエンドなのか。 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』とはまた異なった後味の苦さが残ります。 PR |
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