『麒麟がくる』(最終回)
今まででいちばん心揺さぶられる、本能寺の変でした。 信長に義昭を殺せと命じられ、いよいよ追い詰められた光秀は、ついにその言葉を家臣たちに告げます。 「我が敵は、本能寺にある。その名は織田信長と申す」 その両瞳は、悲愴感に満ちていました。革命という言葉に込められる回天の希望や未来への期待は微塵も感じられません。帰蝶の言葉どおり、信長というモンスターの始末をつけることがそれを生み出した己の義務であると覚悟を決めたのでしょう。 しかし、信長を弑することは、光秀が今まで信じて行ってきたことすべての否定でもあります。その選択に至るまでの光秀の苦悩はいかばかりであったでしょうか。 運命の早暁。 急襲の相手が明智勢と知り、信長は目に涙を滲ませながら笑います。 「そうか、十兵衛か。であれば、是非もなし」 信長もまた、この始末をどこかで望んでいたのかもしれません。 父の、母の、妻の、友の、帝の喜ぶ顔が見たい。ただその一心で、天下を目指してきました。そのために多くの犠牲を生み出すことになっても、信長の願いはただそこにのみありました。しかし天下に近づけは近づくほど、人の心は離れていきました。愛を求めるがゆえに自分自身にも歯止めがきかなくなった衝動を、もがき苦しみ続けたこの人生を、誰かに止めてほしかったのかもしれません。 明智兵に応戦する信長は、矢に射られ血を流しながらも、まるで楽しんでいるかのような微笑みを浮かべていました。これが光秀の命を賭けた決断であることを、信長はその魂で受け止めたのでしょう。 光秀自身は門前でことの次第を見守っていましたが、その心は信長のそばにありました。若き頃からの思い出の旅路をともに辿っていました。 ずっとすれ違い続けたふたりの思いは、ここに来てようやく通い合ったのです。 炎にまかれた部屋の中、信長は息絶えました。その死に顔は穏やかでした。胎児のように丸まって、あらゆる渇きから解き放たれ、彼はようやく安寧を手に入れたのかもしれません。 信長という悪を討ち、自分が「麒麟を呼んでみせる」と伊呂波太夫に告げながら、その表情は晴れませんでした。みずからの行いに始末をつけただけのこの謀叛では麒麟を呼べないことを、光秀はわかっていたのではないでしょうか。そしてその後の身の破滅も、もしかしたら悟っていたのかもしれません。 光秀は麒麟を呼ぶことはできませんでした。 しかし後年、家康が彼の託した思いを実現しました。 麒麟は、もしかしたら光秀自身だったのかもしれません。 過去の大河で描きつくされてきた本能寺の変にいったいどんな新解釈の余地があるのか、放送前からそれだけが気がかりでした。 結果的にこの主従の行く末は、長谷川博己と染谷将太の魂と魂がぶつかり合った、大河史に残る一幕でした。 光秀は生きているのかも…と思わせるラストカットも、一年以上主人公の人生に寄り添ってきたものとしては、それはそれで感慨深く余韻が残りました。 終盤展開が駆け足ぎみだったことは残念ですし、暗躍する秀吉や細川の苦悩ももっと観たかった気はしますが、いろいろ(本当にいろいろ)あったこの大河ドラマの結末が満足できるもので良かったと思います。 来週からの『青天を衝け』も、渋沢栄一という地味な題材に最初は惹かれませんでしたが、キャスティングが決定するごとにがぜん興味が湧いてきました(イケメンが多いから…だけでは決してありません)。毎週続きが楽しみになるような、アグレッシブな展開を期待します。 PR |
* カレンダー *
* 最新記事 *
* ブログ内検索 *
|