クリント・イーストウッド作品はいつも、実話を経緯に沿って淡々と、しかし過度にならない程度に肉付けをして、ラストまで観る者を惹きつけ、最後にはいつまでも感覚として残る味わいを与えてくれる…。 まあ、自分が彼の作風を好きなだけかもしれませんが。 この物語も実在した「クスリの運び屋」である老人が主人公で、監督みずからが演じています。 年老いた者があわせ持つ単純さと複雑さを、見事に体現しています。 デイリリーの栽培という仕事にかまけて家族を顧みることなく邁進してきたアール。しかし昔気質が災いしてデジタル時代についていくことができず、自宅も農園も差し押さえられ、家族にももちろん毛嫌いされて行き場を失ってしまいました。そんな彼に目をつけた孫の友人が、ある仕事を紹介します。それは麻薬の「運び屋」。違法とはわかっていても、見返りの多大な報酬で失ったものを取り返すことにやりがいを見出したアールは、手を引くどころかますますその新たな仕事に熱中していきます。 インターネットを全否定し、携帯電話も使ったことがないというアール。差別用語を悪気なくぶつけ、聞く気のない相手に上から目線で説教します。いつまでも自分の若い頃の価値観を引きずり現代が生み出した文明の利器を拒絶し、輝いていた頃の思い出を後生大事に守り、見境なく若い女を好み、歳下は年長者の言うことを聞くものだと思い込む、いわゆる「老害」の行動に国境は関係ないようです。 しかし、いくら世間から置いていかれようと、死を迎えるその時まで人は生き続けなければならない。 生きるために必要なもの、それは生きがいと居場所。 仕事と自宅、自分の人生そのものだった両方を同時に失ったアールが、無事故無違反という自分のこれまでの人生を買われて仕事を紹介されたことに、悪い気がしないわけがありません。そして失ったものを自分の手で得た報酬でひとつひとつ買い戻していくたび、アールの顔に生気がよみがえっていきます。 歳を取って良いことなんて何にもないけれど、ひとつあるとすれば、たいていのことには動じなくなることです。アールも長く生きて、さまざまな経験をしました。戦争にも行きました。だから、怪しげな仕事にも、怪しげな若者たちにも、自分の運んでいるものが麻薬と知っても、警察に職務質問を受けても、マフィアのボスにさえも怖気づくことはありません。彼らとの約束を破り死が目の前に迫っても、それを受け容れる余地がいつしか心の中にできているのです。現代の価値観にたやすく順応した『マイ・インターン』のベンとアールはまるで正反対の老人ですが、その部分だけは一致しています。 しかし犯罪は犯罪。警察の包囲網は、徐々にアールのもとへ近づいていきます。やがて、アールの第二の人生はついに終わりの時を迎えます。 アールはまたしても生きがいと居場所を失いました。しかし彼の人生はまだもう少し続きます。刑務所の中で、彼は花を育てます。そして毛嫌いされていたはずの娘は、彼の帰りを待っています。アールはまだ生きています。どこにいても、生きがいと帰る場所があれば、人は生きていけるのです。 イーストウッド作品を観ると、人生はひとつの物語なのだと気づかされます。英雄であろうと犯罪者であろうと、誰のものであってもそれは一本の映画になりうる、山あり谷ありの物語。 ひとりの愚かな老人が犯罪に手を染めて、その晩節を汚すことになった。ただそれだけの物語。 それだけの話のはずなのに、アールの人生はいつの間にか心の中に刻まれています。その目、その声、その言葉。とるにたらないような足跡も克明に鮮やかに照らし出すイーストウッドの手腕に、今回もまた唸らされました。米寿を超えてなお映画への情熱はやまないイーストウッドの人生もまた、ひとつの壮大な物語としてまだこれからも続いていくようです。 PR |
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