17年前に制作された映画ですが、そこに描かれた愛には不変の価値があります。 物語は、ジョンドゥが刑期を終えて出所してくるところから始まります。 彼がなぜ冬なのに夏服なのか、出所した時の風習という豆腐を買ってくれる家族はなぜ来ないのか、その理由である彼のひととなりがわずかな時間で描写されます。 昔は彼のような人をまとめて「変わり者」と評していました。今でこそいろんな診断名がありますが、17年前はさほどでもありませんでした。ましてやジョンドゥが幼い頃に適切な治療を受けられたはずがありません。彼はただの落ちこぼれで兄弟の鼻つまみ者でしかありませんでした。 しかし彼には彼にしか見えない、彼だからこそ見える景色があります。 彼がひとめぼれをした相手は、脳性麻痺を患うコンジュ。彼がひき逃げした被害者の娘です。 順序を守ることのできない彼は、彼女の部屋の鍵を勝手に開けたあげく、彼女を目の前にして欲求を抑えられなくなります。途中で彼女が気を失ったために未遂で済んだとはいえ、立派な暴行です。 このふたりが恋人同士になる――普通ならありえない。 普通でないがゆえに、被害者のコンジュは加害者のジョンドゥを求めます。彼女にも彼女にしか見えないものがあり、彼女だからこそ見える景色の中にジョンドゥを招きました。 キム・ギドクとは違うアプローチで描かれる、普通でないラブストーリー。しかしふたりの間に生まれた愛はこの世界のあちこちにある「普通」のそれと何も変わらず、ふたりは会話し、デートし、関係を深めていきます。 コンジュは空想します。ジョンドゥの隣でふざけたり、踊ったり、キスしたり。空想の中のコンジュは車椅子ではありません。自由に歩き、笑い、歌います。しかしそれは決して現実と比較して嘆いているのではなく、逃避しているのでもありません。恋する女は愛しい人と楽しく過ごす空想の世界に浸りがちです。それは「普通」の恋の姿。そしてジョンドゥの愛に身体を許すことで応えようとするのもまた、「普通」の女の決意です。 破瓜の痛みに耐えながらもジョンドゥの優しさに包まれたコンジュ。 でも、世界はそれを愛とは認めない。 ジャケット写真の男女は、ふたりを演じた俳優です。しかし劇中のふたりとは似ても似つかぬ姿です。いわゆる世間が「普通」と定義する恋人同士のように映っています。 ジョンドゥとコンジュがこのふたりなら、周囲は手放しで祝福してくれたかもしれません。しかし、この姿ではないふたりの間に生まれたのも、紛うことなき恋でした。ふたりは世界の「普通」と何も変わらぬ愛を生み、育てました。写真のふたりは、ふたりの愛を「普通」のフィルター越しに見た姿なのかもしれません。 ならば、「普通」の定義にいったい何の意味があるというのか。 ふたりの「普通」の愛を、誰が否定できるというのか。 真実を訴えるすべを持たないために、分かれ分かれの日を過ごすことになったふたり。しかし女は男の帰りを待ちます。彼があかるくしてくれた部屋を掃き、彼の手紙を読みながら、その日を待ちわびています。 普通でないふたりの「普通」の愛。それは豆腐のように白くて純粋で、そして外部からの干渉にはもろくも崩れてしまう。それでも大事に、そっと包み込んで守らなければいけないものなのです。この世のすべての愛がそうであるように。 【ヤスオーの回想】 僕はこの映画を「ヤスオーのシネマ坊主」では最初5点満点で3点を付けました。僕もバカではないので、誰もがこの映画の見どころだとわかるコンジュの健常者になった回想シーンでは多少感動しましたし、「ヤスオーのシネマ坊主」にもそこは書きました。しかし、終盤警察に捕まった時に、コンジュが全然話せなくてイライラしました。お前もうちょっと話せてただろ、大事な時に役に立たんなあと。あと、終盤にジョンドゥが警察から逃げて木の枝を切るシーンも、ああその伏線回収するんだね、コンジュはタペストリーに映る木の影怖がってたもんね、確かにこの映画のタイトルはタペストリーの「オアシス」だからね、と思ってシラッと観てましたから、そこまで大した映画でもないなと。 しかし、後からよく考えてみると、警察ではコンジュもしゃべれてないですが、ジョンドゥも警察に何を言われても殴られても何の言い訳もしていません。こいつは警察に捕まって刑務所に入ることをまったく恐れていません。しかし、警察から逃げて木の枝を切った。誰に何と思われようが社会でつまはじきにあおうが警察に捕まろうがどうでもいいくせに、木の枝だけは切りたかった。それはなぜかというと、この木の枝がコンジュを怖がらせていたからですね。それだけですね。刑務所に入る前にコンジュのためにそれだけは取り除いてあげたかったと。コンジュが安らかに眠れればあとはどうでもいい。これはまさに本当の愛です。今考えても鳥肌が立ちます。ジョンドゥはコンジュのことしか考えていませんから。相手のことしか考えないというのは、口で言うのは簡単ですが、実際はなかなかできないことだと思います。 どうして僕はこのラストで描かれていた究極の愛に、観ている時は気づかなかったんでしょうか。感受性がなさすぎて嫌になってきますね。ジョンドゥが「俺は刑務所に入ろうがどうなろうがどうでもいいんだ。というか、姫以外のすべてことはどうでもいいんだ。しかし、姫を苦しめるあの木の枝だけは許さない。俺はもう刑務所に入っちゃうから、影が怖くなくなる呪文を姫に唱えられなくなっちゃうからね。」とか言ってくれたらわかったんですけど。しかしこの映画は、とにかく感動して泣きたいだけの疲れたOL向けの陳腐なラブストーリーではないので、このシーンでも説明的なセリフは一切なく、ソンジュがラジオを大音量でかけて、それに気づいたジョンドゥが踊ってただけでしたね。これはこれですごいですけど。世界は2人だけのものですね。何も恐れるものはありません。 まあ、さや氏と一緒に観ていたので、泣いちゃったら困るからその時は気づかなくてよかったともいえますが。しかしこんなよくできたラブストーリーに3点とか付けたら僕が何もわかってないみたいでみっともないので、後から4点にこっそり書き換えました。こういう観た時はそうでもないのに、喉につまった小さな魚の骨のように脳のどこかでいつまでも残っていて、時折思い出して考えて、ああそういうことだったのかと思う映画が一番評価に困ります。観ている時はむっちゃ面白くてもしばらく時間が経つと忘れる映画もありますから。 PR |
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