『アトムの童』
日曜劇場らしい対立構造からのどんでん返し的な結末でしたが、突然現れてきた宮沢ファミリーオフィスにあまりラスボス性が感じられず、どうもハマりきれないまま終わってしまいました。 アトムが解散してしまったこともその理由かもしれません。那由多たち若者とじいさんズが一緒にワイワイやっている場面が微笑ましかったので、それぞれが別々の場所で動くようになってから少し興味が薄れてしまいました。 ゲーム業界という導入自体は目新しくて良かったと思いますが、日曜劇場のテイストとはうまく混ざらなかったように思います。 『闇金ウシジマくん外伝 闇金サイハラさん』 最後にようやくウシジマ登場(声)! なんだかうれしかったです。 債務者のエピソードは薄く、サイハラさんとサイハラさんを陥れようとする悪者たちの構図で話は展開しましたが、愛沢がいいアクセントになっていたように思います。他にもウシジマくんに登場したさまざまなキャラが再出演していて、同じスタッフならではの遊び心も目立っていました。 もう一度ウシジマくんの1話から見返したくなりました。 柄崎たちもあいかわらずでしたが、村井もいいキャラです。マキタスポーツが『エルピス』に登場した時も村井にしか見えず、「絶対に怪しい…」と疑いの目でしか見られなかったです。 『silent』 どうにも手触りのない作品でした。批判ではありません。会話も、歌も、目に見えない言葉というものが作り出す人と人とのかかわりに手触りはありません。それは直接心に響くもの。だからこそ、言葉は大切なのだと思います。 ひとつの恋が終わり、またひとつの恋がやってきてまた終わり、さらにまた恋が始まる。 世の中いたるところでそんな営みがくり返されていて、かつその出会いと別れはどれもこれもふわっとしているようにも感じますが、物語で描かれるそれらにはいつもスタートラインとゴールラインがしっかり引かれています。湊と別れた後、ふわっとしたまま紬と想の距離が縮まっていったことに憶えた違和感はそれだと思います。 そして主人公の恋敵はどうしても悪役になりがちですが、奈々に関してはむしろこちらに感情移入してしまうほど、その心情が伝わってきて切なかったです。これは演じた夏帆の演技力によるところが大きいですが、逆に紬が悪者のように見えないこともありませんでした。 これもふわっとしたまま、奈々は想をあきらめることになります。もちろんそこには奈々にも紬にも想にもいろいろな葛藤があってのことなのですが、この作品はすべてを語りません。昨今のドラマにはめずらしい余白の多い手法です。字幕が多いこともありますが、画面から目を離すと展開についていけなかったと思います。 紬と想が互いの気持ちを言葉にして語り合ったのは、ようやく最後になってからでした。 最初から言葉の大切さは説かれていました。想のスピーチや、スピッツの歌によって。しかし人はどうしてもそれをおろそかにしがちです。声でなくても、耳が聞こえなくても、言葉によって思いは届くし、自分を伝えることもできる。自分が自分らしくあるための最初の道具、それが言葉。過去の思い出、今ある感動、未来への希望。これからも紬と想は無数の言葉で語り合いながら、肩を並べて歩いていくのだろうと思います。 『エルピス―希望、あるいは災い―』 恵那と岸本が事件の真相に近づけば近づくほど、遠ざかっていく真実の解放。『フライデーボンボン』は放送終了、村井と岸本は左遷、斎藤に別れを告げられた恵那はニュース8のキャスターに戻るも日々の業務に忙殺されてしまいます。 恵那と岸本がバディを組んで冤罪事件に挑む構図は、謎のベールがひとつずつ剝がされていくようで昂揚感をかきたてられたのですが、異動になってからは岸本の奮闘がなかなか報われず、互いの思いもかみあわないもどかしさがありました。とはいえ、このドラマの趣旨は謎解きではありません。報道とは何か。真実とは何か。希望とは何か。冤罪に象徴されるこの世の歪みを今まで正すことができなかった恵那、岸本、そして村井たちが、パンドラの箱に最後に残った希望の意味を知る物語であったように思います。 大門のスクープを報じないよう牽制に来た斎藤に、恵那は真っ向から立ち向かいます。斎藤は自分なら説得させられると考えていたのでしょうが、もう恵那は彼に泣きながらすがりついた時の彼女ではありません。希望とは、誰かを信じること。そして真実を隠さず報道することで誰かに希望を与える、それが報道する側の、自分の使命だと覚悟を決めたのでしょう。 しかし斎藤が見ているのは、誰かの希望ではなく、この国の未来でした。副総理である大門が失脚すればこの国はどうなる。その責任を負えるのか——それもまた、真実ではあるでしょう。 恵那は斎藤に交換条件を出します。大門のスクープの代わりに「本城彰を逮捕させること」。これがギリギリの譲歩でした。 斎藤が言う「いつか自分がこの国のありかたを正す」という誓いはにわかに信じがたいものがあります。しかし目の前に迫っている本城の報道の、「明日になれば君は出られなくなる」という助言は真実だと思います。それもまた、恵那の希望となったのでしょう。 オンエア後、恵那は岸本と一緒に牛丼をかきこみます。薬漬けになっていた恵那が、ようやく口にした食事だったかもしれません。 そういえばいつも、希望が見えるたび、食事のシーンがありました。吐いてばかりいた恵那が口にしたおいしくないカレー。病んでいた岸本ががっついた雑炊。そしてこの夜の牛丼。おそらく村井も交えて。 食べることは生きること。そして信じあえる誰かとともにする食事は、何よりもしあわせをもたらすものだと思います。さくらは釈放された松本のためにカレーを作り、ともにケーキをほおばりながら涙しました。きっと隣の松本も同じ表情をしていたでしょう。 そこには確かに、苦しみの闇を抜けて灯った希望の光がありました。 しかし、これで万事解決したわけではありません。大門の不祥事もみ消し事件はあかるみにはなっていませんし、もちろんその陰ではもうひき返せないところにいる斎藤が暗躍しているはずです。すべてが丸くおさまらなかったところは、現実社会そのものです。 松本の冤罪は証明されましたが、そこがゴールではありません。このドラマはフィクションではありますが、いくつものノンフィクション資料を題材にして描かれています。実際の事件においても、無辜の民から日常を奪った大門のような誰かが罪に問われることはありません。そして、真犯人が今もどこかでのうのうと生活していること知らされた住民は、もしかしたらいつかその犠牲になるのかもしれないという恐怖に脅え続けることになるのです。 それでも希望を捨てず、求め続けて人は生きていく。 まだ民放ドラマでもこんな挑戦的で心に訴えかけられる秀作を作れるのだと感嘆しました。熱演した俳優陣だけでなく、佐野亜裕美・渡辺あや・大根仁という優れた制作スタッフ全員の熱意の賜物だと思います。稀に見る質の高さでした。 PR |
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