『恋せぬふたり』
最初から最後まで物語の芯がしっかりしていて視聴後爽やかな気分になれるドラマでした。 自分が抱く違和感に名前がついたことでホッとしている咲子に、同じ感覚で理解したわけではありませんがどこか共感を憶えたのは、やはり「どんな自分であっても自分を受け入れ前向きに生きる」という姿勢は誰にでも共通する理想だからだと思います。 恋愛ドラマを楽しんで、結婚して出産してマイホームを持つことがゴールだと思い込まされている、多くの人びとの代弁者がカズくんやみのりです。ドラマの展開上、彼らははっきりと自分の価値観を咲子や羽にぶつけますが、声に出すか出さないかの違いはあれど、「普通でない」価値観に出くわせば自分もきっと同じように感じるでしょう。 当初感想に「ふたりは壁をどう乗り越えるのか、どう折り合いをつけるのか」と書きましたが、こういう思考回路でいるから自分はいつまでたっても後ろ向きにしか生きられないのだろうな…とつくづく感じました。自分らしく生きることは自分を否定する周囲を否定することでは決してないし、相手は自分を映す鏡というから自分が心を鎖していれば相手に理解されることは永遠にない。年越しそばも年越しうどんも美味しいのだから、人生の選択肢はマルかバツしかないという先入観も捨ててしまえばいい。 昨今、「普通でない」ことで貶められてきた価値観が尊重される風潮にありますが、それはそれで正しいにしても、「尊重しましょう」と強制されるのはちょっと違うような気もしていました。 このドラマも、いわゆる「普通でない」個性を持つふたりが主人公ですが、そんな威圧感は微塵もありません。「普通でない」はずのふたりは実に「普通」で、思うがままに生きられない不自由さに苦しみつつ、そんな中でも自分らしく生きるしあわせをつかむために前へと進んでいきます。それは「普通」側のカズくんやみのりも同じです。恋する相手には想いの通じないカズくん、あがりに向かっていたはずの人生ゲームが行き詰まってしまったみのり。彼らの人生や価値観も、咲子や羽と較べて決して否定されるべきものではありません。いわゆる「みんな違ってみんな良い」。しあわせはその人の数の分だけ未来に用意されている。前に向かって進む咲子の笑顔は、そんなメッセージに思いました。 『しもべえ』 オリンピック・パラリンピックで飛び飛びになってしまったのが残念でしたが、ストーリーにさして連続性はなく、前話の記憶がなくても気楽に楽しめるコメディだったのが良かったです。 得体のしれぬおじさんのしもべえを容赦なくこき使う女子高生、初恋の人やギャル風ながら根はアツイ親友などなど、個性豊かなキャラを若手俳優が振り切って演じていたのも良かったです。 しもべえの正体がお父さんというのは、(彼の手料理が夫と同じ味という母の言葉から)早くに予測できた真実でしたが、ずっとセリフのなかったしもべえが最後の最後で発した声にはついつい涙を催されました。さすがヤスケン。 それにしても、『恋せぬふたり』とはまるで違うテイストのドラマを制作できる振り幅の広さは、さすがNHK。 『妻、小学生になる。』 ファンタジックな設定ながら、「ありえない」という違和感を少しも感じさせることのない、素晴らしい人間ドラマでした。 「人はいつか死ぬ」ことは、誰でも知っています。しかしそれをつねに意識している人は少ないでしょう。ずっと一緒に暮らしている家族のことならなおさらです。毎日「おはよう」「いってらっしゃい」「おかえり」「ただいま」、そんな言葉をずっと交わしていくものだと、圭介も麻衣も、きっと貴恵自身も信じて疑わなかったに違いありません。 しかし、「人はいつか死ぬ」。それは明日かもしれないし今日かもしれない。数々の災害を目の当たりにして以前よりは自覚するようになっているはずなのに、ともすれば油断しがちです。明日も今日と同じ日がやってくると思い込んでいるのです。 この物語は、そんな緩み切った心にまっすぐ突き刺さってきました。 誰もが昨日を悔やんでいました。圭介も麻衣も、貴恵も、そして千嘉も。 貴恵の魂の宿った万理華を囲む圭介と麻衣を一歩引いて見守りながら、千嘉は常に複雑な表情をしています。序盤は娘すら憎み、鬼のような形相だった千嘉ですが、新島家の家族と出会い、貴恵とは同じ母親同士として友情すらはぐくむ中で、だんだんと落ち着きを取り戻し、いなくなった娘と向き合うようになっていきます。しかし新島家の前では自分の思いを口にはできません。万理華がいなくなった喪失感は大きく、しかし自分に悲しむ資格はないと自覚しているだけに、吉田羊の沈黙が語る悲しみは、新島家の幸福とはあまりにも対照的でした。 千嘉の後悔を知らずにいる万理華がこのまま戻ってこないのはあんまりだ。しかし新島家に戻った笑顔がふたたび失われる時も見たくない。 死者には安息の成仏が、そして生ける者には希望の朝が、すべての人にしあわせなラストが訪れることを望まずにはいられませんでした。 新島家に用意された最後の一日。 生きている間にかなえられなかった夢をすべて実現させたその日は、この世の奇跡をすべて集めたような、しあわせのぎゅっと詰まった一日となりました。 ようやく言えた貴恵への「おやすみ」。生と死を分かつその言葉は、妻への、母への、そして貴恵自身の後悔すべてを浄化して、魂は天国へと飛び立ちました。 そして、万理華への「おはよう」。これから始まる新しい彼女の一日へ捧げた祝福でした。 人はいつか死ぬ。つまり死ぬまで人は生きている。死んだ人を見送って、見送られる日まで生き続ける。だからそれまでの一日一日を、しあわせを詰め込みながら生きていかなければいけないのだ。見送った人びとをいつまでもやきもきさせないように。 忘れていた大切なことを思い出させてくれた、最良のファンタジーでした。 貴恵と万理華を見事に演じ分けた毎田暖乃の演技には泣かされっぱなしでした。シーン途中での石田ゆり子との入れ替わりも効果的でしたし、CM前の「あったかもしれない家族の風景」も良い演出だったと思います。 『カムカムエヴリバディ』(承前) 安子誕生から始まった100年の物語も、いよいよラスト5話となりました。 文ちゃんと別れた後、仕事と英語に邁進するひなた。その間にも、算太とるいの再会、算太の死、岡山への帰郷、ジョーの音楽界への復帰…と、さまざまなことがありました。 ひなたの道を歩いている大月家。 しかし、るいのもとにまだ「安子」は現れません。 観ている者は、条映映画村を訪れたハリウッド一行の中にそれらしき人物がいることに気づいています。アニー・ヒラカワ。安子が勇に「あんこ」と呼ばれていたこと、平川先生の英会話ラジオを心の拠り所にしていたこと、岡山というキーワードとあんこのおまじないへの反応から、アニー=安子説は濃厚かと思われます。 赤いコートと靴は控えめだった安子のイメージから乖離していますし、年齢(75歳くらい?)を考えてもハリウッドでバリバリ働けるとは思えないのですが、るいと安子がこのまま再会せずに終わるとは思えませんし、ふたりの心のすれ違いは年末からずっとひきずっていたモヤモヤですから、最後はきれいに解いてほしいと思っています。 それにつけても思うのは、歴史のめぐりは世代のバトンリレーであるということです。 戦争ですべてを失った安子。そして終戦間際に生まれたるいもまた、戦争に翻弄された人生となりましたし、ジョーも戦災孤児です。そして彼らの子であるひなたや桃太郎は、戦争とは無縁の時代を自由に生きていますが、思わぬかたちで戦争に触れることになります。終戦の日の正午、岡山。甲子園を観ていた勇たちがサイレンとともに立ち上がるのにつられた桃太郎は、おそらくはじめて黙祷の意味に気づいたのでしょう。そして母と祖母の部屋で古いラジオを見つけたひなた。突然流れた平川先生の玉音放送の英訳は、果たして夢か幻か。母と祖母も聞いていた平川先生の声に背中を押され、ひなたは一度挫折した英語にふたたび向き合うことを決めたのでした。 主人公が戦中から戦後、現代を生きていく朝ドラは少なくありませんが、三世代で各時代を描く物語はめずらしいと思います。しかしだからこそ、自分の祖母や母もこんな生活だったのだろうかとか、ひなたと同じ髪型をしていたなとか、それぞれの主人公の生きざまに思いを寄せることができました。 彼女たちにいったいどんな結末が用意されているのか…。 どんなかたちであっても、ひなたの道であることを信じています。 PR |
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