『エール』(承前)
古山裕一の人生を描くにあたり、モデルである古関裕而の音楽にとっても大きなターニングポイントとなった太平洋戦争は避けては通れません。しかし朝ドラという枠で、内地ではなく戦場、しかももっとも悲惨といわれるインパール作戦の現場で、どのように戦争を表現するのか。生々しくてはいけない、しかしぼやかすわけにはいかない。予告で流れていた「僕は音楽が憎い」。あれほど音楽を愛していた裕一が、なぜそんな言葉を虚無の表情でつぶやくに至ったのか、しっかりと伝えなければ意味がありません。 音楽が戦意高揚の道具として消費された時代。裕一は疑念を振り払うかのようにあえてその消費の渦に飛び込んでいきます。時代も自分も誤ってはいないのだという証明への欲求は、彼を戦場へ向かわせました。そこで目にしたものは、自分が正しいとか間違っているとかいった瑣末な迷いなどたやすく凌駕する現実でした。 ともに音楽を奏でていた者が、さっきまで笑顔で話していた相手が、次の瞬間には息絶えている。見知らぬ誰かに銃を向け、見知らぬ誰かの命を奪い、見知らぬ誰かに奪われる。 そんな地獄のような場所へ、彼らは自分の音楽によって駆り立てられたのだと。 生きて帰国したことを喜ぶ家族とは離れ、孤独の中で日々を送る裕一。せめて日本が戦争に勝利すれば、彼は救われ、恩師たちの死も報われたことでしょう。 そのわずかな望みも、玉音放送によって砕かれました。 登場人物たちは、敗戦をさまざまに受け止めました。 病床で「良かった」と嬉し泣きするまさ。 空襲で焼け落ちた自宅の上で、復活の讃美歌を歌う光子。 いちばん大事なものに気づいた五郎。 そして、何もかも失った裕一。 舞台は一転、占領後のラジオ制作現場に移ります。戦災孤児のラジオドラマに熱意を見せる劇作家が登場し、「NHKですよ。嘘はつきません」というユニークなセリフも飛び出して、暗く閉ざされた気持ちが少し救われたように感じました。 音楽が罪になることなんて、絶対にあってはならない。 音楽はいつだって、闇を照らす光であり、明日への希望であり、苦しみや悲しみからの救済であったのです。 焼け野原に響いた光子の讃美歌は、きっとそのメッセージなのだと思いました。 『あまちゃん』で最後の最後に披露した鈴鹿ひろみの歌声も、被災地に捧げる鎮魂と癒しのエールでした。光子の歌は薬師丸ひろ子の発案だそうですが、戦争編を締めくくるにふさわしい素晴らしいシーンとなりました。 それとは対照的に、戦争によって心を破壊されてしまった裕一。「音楽が憎い」とつぶやく窪田正孝の何の感情もない横顔には胸を突かれました。また裕一の笑顔を見たい。目を輝かせて楽譜に向かう裕一を見たい。それを取り戻してくれるのはつねにそばに寄り添う音、そしてあの劇作家でしょう。まだまだ名曲を生み出していく裕一と音の人生はこれからが本番。音楽が、光が、希望があふれる展開になるであろう戦後編に期待します。 PR |
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