『anone』
中盤からは思いもよらない展開となりましたが、物語に流れる空気感は変わらずゆったりとしていて、孤独だった人々が偶然集まり、やがて家族となっていくさまを淡々と描いていました。まるで、その日常を林田印刷所の居間の片隅で見ているかのようでした。幽霊になっていたのかもしれません。 坂本作品は行間の多さが特徴です。見ている者はそれを想像で埋めながら物語を追います。 しかし他者の日々を、その動向も感情の動きも含めてすべて把握することなんていうのは不可能なことであって、言葉の端からその人の過去を、その思いを感じ取り、そして自己の中に新たな他者を作ります。それは時に正解であり、時に誤りであり。 ハリカの中にいた彦星くん。 るい子の中にいた元家族。 玲の中にいた亜乃音。 理市の中にいた社会。 正しい、間違っている、それを判断するのはあくまで自己であり、他者ではありません。 なぜなら、他者は他者であるから。 だからこそ、人は孤独。 しかし孤独だと思うことは、人とつながっていた証でもある。 ハリカが「ひとりになりたい」とはじめて思ったのは、家族を知ったから。少し淋しそうな亜乃音さん。それでもハリカが「ただいま」と帰ってくることを知っているから、ハリカの成長に目を細めて送り出すでしょう。るい子もいる、持本も(おそらくどこかに)いる。もちろん玲も陽人もそばにいる。だから大丈夫。 未来はきっと大丈夫。 坂本作品の後味の良さは、曇り空を割って差し込む一筋の光のようです。 『弟の夫』 全3回はマイクが日本に滞在したのが3週間だったからでした。 『女子的生活』で扱ったLGBTを、今度は当事者以外の人間に主眼を置いて描かれた作品です。 把瑠都が準主役と聞いて好奇心から見始めたのですが、元大関がこれほど存在感を放つとは想像もしませんでした。佐藤隆太・中村ゆりをはじめ子役まで達者な俳優陣をそろえ、細かい演出や丁寧な脚本、プレミアムドラマのあいかわらずの質の高さには舌を巻く思いです。 カミングアウト以来疎遠のまま亡くなった双子の弟の夫を前に、最初は偏見を拭えない弥一の葛藤。しかしマイクの人柄に触れるうち、その頑なな思いは徐々にかたちを変えていきます。ひとり娘の夏菜にその問題が訪れたらと考えた時、自分の知らない弟の姿を知った時。マイクを認め、涼二を認め、そして最後にはようやく周囲へマイクの存在を「弟の夫」と、家族の一員だと主張できるようになるのです。 弥一自身、「家族」を見失っていました。妻と離婚し、夫婦や家族という肩書は失っても、マイクが来たことで夏菜に元妻との時間を与えることができました。他人が言うように、少し「他と違う」のかもしれないけれど、娘、娘の母、そして弟の夫。自分たちは確かに家族。家族がしあわせならば、それで良い。 涼二と過ごすべきだった時間は取り戻せないけれど、「家族」はかたちを変えて弥一のもとに戻ってきたのです。 LGBTというよりも、これは「家族」の話なのだと感じました。 このドラマでも子役の演技が光っていました。父親のもとでのびのび育っていても母親と別れる時の淋しそうな素振り、マイクと別れる時には涙を我慢する成長した姿、さまざまな表情を見せてくれました。把瑠都に負けず劣らず、存在感がすごかったです。 チョイ役でしたが野間口徹の変幻自在ぶりもさすがでした。 全3回ながら、見ごたえのあるドラマでした。把瑠都はこれからも俳優業でオファーがありそうですね。 『わろてんか』 藤吉は不要だった….。 と、しみじみ感じた最終回。 女太閤にはとうてい見えなかったけれど、それでも年相応の落ち着きや貫禄を醸し出せていただけに、もっと早く藤吉が退場していれば、後半はおてんちゃんの活躍物語として楽しめていただろうにと残念に思います。 部分的には良いところもありましたが(団真vs団吾や、リリコ&シローや、トキ&風太や)、随所に作りの雑さを感じた朝ドラでした。苦労話やメインイベントが語りだけで終えられたり、エピソードの投げ捨てだったりもさりながら、もっとも重要人物であるてん&藤吉に感情移入しづらかったことが、いちばん話に入り込めない原因でした。ダメ人間である藤吉が結局情熱家というだけで手柄を持っていくところや、苦労女房感のないてん、わろてるだけですべての問題が解決されることをさも事前に知っているかのような似たもの夫婦ぶり、前半の苦労話がこれだけでもうだいなし。事業が落ち着いた後半からは盛り上がりを見せましたが、もっとも大変であったろう戦時中のエピソードが駆け足も駆け足(これは、戦争を描くと視聴率が落ちるらしいことが原因かもしれませんが)。なんとか大団円風で幕を閉じたものの、消化不良感の残る朝ドラでした。 今でも吉本新喜劇は「マンネリ」そのものを主題としています。同じギャグがくり返されることをわかっていて、「来るぞ、来るぞ」と待ちかまえ、「キター!」といっせいに笑う。笑いを待ち、笑うために見るのです。同じことのくり返しとわかっていても、笑いを求めて見てしまうのです。まさしく、このドラマのもっとも言いたかったことであろう、「笑いは薬」に通じるものがあります。 娯楽のきわめて少なかったこの時代、同じ出演者、同じ漫才、同じ落語をお金を払ってでも何度も何度も聞きに来る。そして笑う。笑って満足して帰り、そしてまた笑いを求めてやって来る。寺ギンのような席主もいて、同業他社が乱立していたであろうこの時代、なぜ北村笑店が成功し、多くの小屋を抱えることができたのか。その理由はおそらく、藤吉とてんが金儲けでなく、「笑いは薬」をモットーに観客と芸人を大切に守りながら商売をしていたからであろうと思われますが、どうもその情熱がふたりから伝わってきませんでした。「商売繁盛」という週末の着地点に向けて勝手に話がいいように展開してしまったために、いまいち感情移入しきれずに話が進んでいってしまったように感じます。 ただ芸人を演じた俳優さんたちの熱演はたいしたもので、ここがコケたら見る影もありませんでしたが、リリコとシローの漫才はまるで大助花子を見ているようで楽しめました。広瀬アリスの意外な才能を発見しましたね。まさか夫婦になるとは思わなかったけれど…。 キース&アサリは当時一世を風靡したエンタツアチャコの漫才をモデルにしていると思われますが、現代に通じる部分が少なかったことが残念です。大野拓郎は大阪に住み込んで吉本芸人とも懇意になるまで笑いに専念したようでしたが。 ようやく最後の最後で新喜劇が登場しました。素人出演者が棒読みで演技するところから始まって、だんだん過去と現実がないまぜになり、自然とドラマになっていく演出は非常に良かったです。プロ中のプロ、内場勝則が一座をひっぱり真骨頂を見せましたね。亀さんはそこそこ御歳のはずだったので、いつ退場するか危惧していたのですが…最後までお元気で何より。 老けメイクをしない風潮とはいえ、日本髪に戻したてんちゃんは完全に20代でした。とはいえ、露店に立つオーバー50のてんをならず者が「姉ちゃん」と呼んだのはどうかと思う…。もともと童顔ですから、長い年代を演じなければならないこのドラマにはミスキャストだったのかもしれませんね。今さらですが。 近頃、大阪制作の朝ドラの出来がいまいちで悲しい限り。安藤サクラ&長谷川博己の『まんぷく』には大いに期待します。この夫婦で失敗しないはずがあるまい…。 PR |
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