スタンドを白く染める人の姿も、
鼓膜を震わす吹奏楽の音も、 銀傘をぐわっと押し上げるような歓声も、 なにもない、甲子園。 開幕前から胸高鳴っていた夏は来なかった。 きっと甲子園という存在に、いろんなものを重ねていたのだと思う。 うだるような昼下がり、宿題終えてテレビをつけたら高校野球。 田舎に帰るとおじいさんが観ていた高校野球。 敗れて涙にくれる選手にもらい泣きして、 閉会式の秋めいた空に夏休みの終わりを感じて切なくなって。 夏の季節を思い返せば、いつも甲子園が一緒にあって。 夏が来るたび、甲子園を観るたび、忘れていた幼い日々がよみがえる。 新しい思い出を作ってきた一度きりの夏は、いつの間にか懐古の季節になっていた。 毎年一度きりの思い出を作る若者たちを観ながら、同じ記憶をめぐらせて同じ夏を過ごした。 そういう季節が来ることを、今年も待っていた。 だから、いつもの夏であってほしかったのだ。 コロナに、いろんな人のいろんな意見に、変化を強いられる生活に振り回されながらも、一度きりの場を用意された32校。 いつもと違う夏。それでも試合が始まれば、いつもと同じ夏がそこにありました。 勝っても先はありませんが、目指すは目前の勝利のみ。吹奏楽も歓声も、それらが試合展開を左右することはあるにせよ、本来は甲子園を彩る額縁でしかありません。この夏、グラウンドの中には原色の景色がありました。 高校野球の醍醐味ともいうべき逆転劇を見せてくれた明徳義塾には、これぞ馬淵采配、これぞ甲子園と唸らされました。 センバツが開催されていたら間違いなく圧倒的優勝候補であったろう中京大中京に挑んだ智弁学園。2年生エースと2年生の4番を起用し、強豪を相手に粘り抜き大会初の延長戦、タイブレークに持ち込むも、最後はサヨナラ負けとなりました。一瞬の隙も逃さない中京の走塁が見事だったというより他ありません。ただ、プロ注目の高橋投手を相手に一歩も引かなかった西村投手は、昨年よりも大きく成長しているように見えました。来年の春、そして夏はさらに大きくなって勝利に貢献する姿を見られることを願います。 甲子園に番狂わせはつきもの。だからこそ、21世紀枠の帯広農の勝利も、磐城の健闘も、決して特別なものではなく、いつもと同じ甲子園の姿でした。 勝っても涙。負けても涙。 新鮮で、そして懐かしい夏でした。 この交流試合の開催に向けて尽力された多くの人びとに感謝を捧げます。 しかし、こんな夏は今年かぎりであることを祈るばかりです。 一年後の夏は、いつもの夏に戻ることを願って待っています。 PR |
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