『俺の家の話』
まったく知らなかったのですが、長瀬智也はこのドラマを最後にジャニーズを退所し、裏方に回るそうです。「こ、こんなイケメンがこの世に存在したのか!」とビックリしたのはもう20年以上前のこと。歳を重ねた今でも、持って生まれた華やかなオーラは変わりません。この才能をもってして、何を思って裏方になることを決意したのかはとうていわかりかねますが、ただ「もったいないなあ」と嘆息するばかりです。 クドカンは『あまちゃん』を観るまで食わず嫌いだったため、クドカン×長瀬くんのドラマを観るのはこれが初めてです。能という伝統文化の鎖された世界と、介護という普遍的な社会問題が融合したこの物語は、本来なら重いはずなのに、なぜか笑えるし泣けてしまう。クドカンにしか投げられない変化球をキャストがしっかり受け止めて、阿吽の呼吸で演じているようにも感じます。 久々に会った父親は要介護の状態になっており、「他人の私にできることがどうして息子のあんたにできないの」とヘルパーのさくらに言われて「親子だからできないんだよ」と泣く寿一の姿、息子をお風呂に入れたこともおむつを換えたこともない寿三郎に「あんたが俺にしてくれなかったことを全部やってやる」という寿一の言葉は、介護問題がすぐそばまで来ている自分の心にもずんと響きました。クドカンの言葉は、ユーモアの衣を纏いながら、その下に本質を隠しています。 寿一にとっての寿三郎は、いつも厳しくて、まわりにたくさんの大人がいて、人間国宝で、ずっと遠くて大きい存在だったのに、いつの間にか野菜の名前も言えなくなって、ひとりで生活できなくなって、好きな女性にフラれたことも10分後には忘れてしまう。そんな父親を受け止めて、遺産がなくてもそばにいようと決めた寿一。これからこの親子が、どんな最後の時間をともに過ごすことになるのか。さくらは、寿一の弟妹や寿限無は、それをどう見守っていくのか。 現実のことはひとまず忘れて、ドラマとしてクドカンワールドに身を委ねようと思います。 『天国と地獄~サイコな二人~』 女性刑事と殺人鬼が階段ゴロゴロしたら魂が入れ替わった…というドタバタもの。見どころはやはり、性別の違う中身を演じる綾瀬はるかと高橋一生でしょうか。入れ替わった後のほうが、よりそれぞれの性を過剰に演出している感はありますが、目の覚めた瞬間、まぶたを持ち上げる動作だけで女性の性を感じさせた高橋一生の演技力はさすがですね。 どうやら単純な入れ替わり、ではないような気がします。八巻が割とすぐふたりの入れ替わりに気づいたことはいくら何でも不自然ですし、きっと裏があるのではないでしょうか。また、柄本佑をしてただの居候にあてるわけない気もします。河原もこの後何かと絡んでくるでしょうし、そもそも日高は本当に殺人犯なのか、という疑問もあります。テーマのひとつに「愛」があるようですが、それが彩子と日高の「愛」なのだとしたら、正義感の塊のような彩子が連続殺人鬼を愛するわけないですし。日高はすでに誰かと入れ替わっており、彩子同様捕まるわけにはいかないと考えていたと予想するのが自然なようですね。しかしそこは深く考察せず、展開を楽しんでいきたいと思います。 PR
『知ってるワイフ』
タイトルの意味は、2話を観て「自分の知っている妻はどっちなんだ!?」という意味なのかと解釈しました。韓国語の直訳なのかもしれませんが、もっとひねった方が良かったのではないかなあ…。 韓国ドラマのリメイクで、どこまでオリジナル設定を入れているかはわかりませんが、身につまされるものがありました。豹変してしまった妻にゲンナリする夫、「あの時ああなっていれば…」という後悔にも似た思い。そして家事育児に親の介護、疲れ切った自分に無関心な夫、「こんなはずでは…」という嘆きは妻も同じ。主人公は夫なので夫側からの視点を中心に描かれていますが、怒鳴りたくて怒鳴っているのではない妻のやるせない思いもじゅうぶんに伝わってきました。 そして、過去を改変したことによって新しく妻となった沙也佳のキャラがまだ掘り下げられていません。お嬢様にしてはどうも無感情なキャラで、何かを秘めている気がします。きっと彼女にも彼女なりの思いがあるはずで、元春はそれに気づくことができるのか、新しい妻とはどのような関係を築いていくのか…。元春は基本ダメ人間ですから、きっとひと悶着ある気がします。 このドラマはイケメンジャニーズの大倉くんがダメ男を演じていることも見がいがありますが、なんといってもヒロインである広瀬アリスの魅力につきます。初回はその美貌も霞むくらい暴力的でヒステリックで、元春の嫌悪感に説得力を持たせていましたが、回想シーンでは元春をいちずに恋する女子高生で、元春がうっかり好きになってしまうのもわかるくらい可愛らしかったです。そして変わってしまった現代ではデキる女子行員で、認知症を患う親に寄り添う姿は人間的な強さも感じました。元春はそういう澪の人間性に惹かれたはずなのです。 着地点はなんとなく見えていますが、いったいどのように「そこ」へ持っていくのか、今後の展開に期待します。 『麒麟がくる』(承前) いよいよラストスパートに入ってきました。 初回から登場していた松永久秀が、こんなかたちで結末につながってくるとは思いもしませんでした。途中、対信長集団ヒステリーのひとりとなってしまった時はモッタイナイナーと感じていましたが、さすが吉田鋼太郎。松永といえば爆死with平蜘蛛が有名ですが、立ったまま一文字に腹かっさばく最期も凄まじい迫力でした。 松永が遺していったとんでもない爆弾は、光秀と信長の間で破裂して、大きく深い穴を作ってしまいました。家臣に叛かれ、朝廷の信頼も失い、帰蝶も去り、光秀にまで裏切られた信長の孤独は察するに余りあります。それが彼の暴虐をエスカレートさせていき、やがて本能寺へつながるというシナリオは実に納得です。 しかし、ここに来て増えつつある本能寺の変の真犯人。帝、義昭、家康らに、次々「YOU、信長討っちゃいなYO」と暗にささやかれ、人が良く真面目な光秀は八方塞がり。隠密を潜ませ光秀を追い込もうとする秀吉の動きも見過ごせません。後世に残されたいちばんの謎「なぜ光秀は信長を殺したのか」は、どうやらひとつには絞らずに描かれそうです。 …と、ここまで来て思うのは、やっぱりいろいろ、もったいないです。 そもそも没個性の光秀を主人公にするからには、逆に強烈な個性を持った人間をあわせておかないと、ストーリーが盛り上がりません。前半は道三(・信長・帰蝶)がいましたが、後半は登場人物が多すぎて物語も煩雑になり、逆にそれぞれの個性がしぼんでしまったような気がします。とくに秀吉は、佐々木蔵之介が「長身高齢でミスキャスト」という前評判を覆す怪演を見せているだけに、もっと登場時間を増やしてほしかったです。初登場時の、駒に文字を教えてもらう時の無邪気さと、今の出世欲の塊のような酷薄さの二面性は、今までさまざまな俳優が演じてきた秀吉とは異なる魅力を放っており、さすが演技派と唸らされました。光秀といえば、やはり秀吉との出世競争が想起されるだけに、このペアの対比性を楽しみたかったという気もします。もちろん、それは今までの大河でさんざん描かれてきた題材でもあるので、お腹いっぱいになったかもしれませんが。 歴史の年表で言えば、戦国時代の最後に麒麟をつれてきたのかもしれない家康も、本来ならばもっと菊丸とセットで登場していたのかもしれませんね。 駒はヒロインという立ち位置のようですが、光秀に麒麟の言い伝えを教えた以外はいまいち存在意義のつかめないキャラでした。「光秀に失恋して菊丸の片想いにも気づかず、義昭の妾っぽくなり薬屋という立場で要人に次々絡む」ということしか印象にありません。『太平記』の花夜叉のように、実は光秀の妹で兄の陰日向となって暗躍する…という立ち位置なら納得できたかな? それだと近衛家で育った伊呂波太夫の設定と被ってしまいますかね。伊呂波も同じ芸人の花夜叉と較べると都合よく動かされていた感があります。 血縁関係なく光秀に寄り添う駒のために熙子のキャラが薄くなり(しかも後半は他局ドラマの撮影のせいか出番が減るし)、糟糠の妻を失って精神的にもろくなる光秀の描写もあまり説得力がなかったような気がします。 うーん…苦言ばかりになってしまいましたが、最後はやっぱり、本能寺で対峙する光秀と信長ということになるでしょう。この作品において、いちばん輝いていたのは信長です。おそらく、いちばん心に残る本能寺になるはずです。令和の信長像を切り拓いた、染谷将太版信長の最期に注目です。
はじめて「死」を意識したあの日から26年。
見逃していて、ずっと心残りだったドラマをようやく鑑賞することができました。 あの日の夜明け、あの体験したことのない揺れで「死ぬ」と感じたものの、実際には死にませんでした。神戸にも身近な人はいませんでした。 だから、忘れられない記憶といっても、神戸の人たちとのそれには乖離があるはずです。 しかし、渡辺あやの脚本は、いつも作品世界とこちらの心の距離をたやすく超えて届いてきます。 勇治と美夏がその日の神戸で失った幾つもの日常。命。心。 同じ日付のその日、神戸で取り戻した光。希望。明日への一歩。 自分自身も、いつの間にか深夜の神戸の街を歩いていました。変わり果てた街を思い出しながら、そして復興を歩んでいく街に思いを馳せながら。 もう決して元には戻らない。日常に戻ったようでいて、震災のなかった未来とは絶対に同じではない。だから、ここからまた始めなければいけない。この街で起きたこと、思ったこともすべて受け止めて、生きていかなければならない。美夏はおっちゃんと再会して区切りをつけた。勇治は友達でなくなった少年が幸せな家庭を築いているらしいと知ることができた。覚悟を決めて来たわけではない勇治は、まだ東遊園地には足を踏み入れられない。けれど、ずっと神戸に残してきた思いは拾うことができた。震災を他人事のように語るプレゼンに抱いていたわだかまりを、幾許かは解消して広島へ向かえるのだと思う。 5時46分。夜明け。 それは、あの日以来、勇治と美夏にはじめて訪れた朝だったのかもしれません。 渡辺あやの脚本に井上剛の演出はやっぱりよく合います。沈黙の夜闇に、街灯の光や窓明かり。それに照らし出されるふたりの表情の微妙な揺れ幅。そして紡ぎ出される言葉の数々は、心の蓋した奥底からつかみ出してきたような、生々しい傷だらけの感情。すべてが合わさってできあがった世界観だからこそ、こちらの胸を静かに、しかし激しく揺さぶってくるのです。 このドラマがはじめて放送されたのは、2010年1月17日。あの日から15年目のことでした。 神戸の街からは爪痕は去っていて、世間でも記憶は薄れかけ、もう二度とあんなことは起きないという思いが普通になっていて、作品中にも震災を体験していない人物からそれを匂わすセリフが出てきます。 自分自身もそう思っていました。 というよりも、起きてほしくないという願望でした。 すべての人の思いを裏切り、東日本大震災がやってくるのは、その翌年のことです。 自然は想像よりずっと残酷なことを知った世界は、2010年からがらりと変わってしまったけれど、 1月17日に抱く思いは、いつまでも変わりません。 あの日失われたすべての命に捧げる鎮魂の祈り。そして、傷つきながらも生きていかなければならないすべての命に、希望と安寧が訪れることを祈る日でもあるのです。 破傷風という病気を知ったのは小学生の頃でした。(たぶん)図書室で借りた児童小説の中に出てきました。タイトルも作者も忘れてしまいましたが、表紙はホームズの衣装を着た女の子のイラストでした。(たぶん)中学生くらいの主人公が、古釘を踏み抜いて破傷風になった友人を見舞うため(たぶん)彼女の自宅の古い洋館を訪れるところから始まる物語で、そこで(たぶん)事件が起きて、主人公がちょっと憧れていた友人の親族の男性が(たぶん)犯人だった…という話だったような気がして検索しましたが探し出せませんでした。どこかで記憶を間違えているのかもしれません。児童向けにしては暗い雰囲気で、謎解きものとしても面白かったような気がするのですが…。 ともかく、その小説の中で破傷風になった友人は、登場時すでに回復していたこともあってか普通に主人公を出迎えていましたから、たいした病気とも思わず、「古釘を踏むと危険なんだな。気をつけよう」とその病名を心にとどめたくらいでした。 それから約30年。 この作品をはじめて観て、かの小説の主人公の友人も実はこんな目に遭っていたのか!? と破傷風の脅威に恐れおののきました。 昌子役の女の子は昭和の子役らしい稚拙さがあるのですが、発作に苛まれる場面は迫真です。どうやって演技させたのか不思議になるくらいの苦しみ方、叫び声でした。我が子が目の前であれほど苦しんでいるのに何もできない両親の心が壊れていくのも無理ありません。両親役が渡瀬恒彦・十朱幸代というよく知る俳優であったことは救いでした。「これはフィクションである」という逃げ道を自分の中に作れたからです。もし見知らぬ役者であったなら、本当に苦しんでいるどこかの家族のように感じてよけい辛かったかもしれません。 作中、両親それぞれの母親が見舞いに来ますが、父方と母方で微妙に対応が異なっているのが興味深く感じました。ごく自然に父方の祖母だけ病室へ入るあたり、現代の嫁なら抵抗感を抱くところですが、この時代は父方のほうが重んじられて母方は遠慮するのが当然だったのでしょう。しかし父方の祖母の、孫への愛と心を病む嫁への思いやりは言葉にしなくてもひしひしと伝わってきました。演じていたのは『大誘拐』の北林谷榮、さすがの存在感でした。 「怖い映画」という括りでよく紹介されている作品ですが、あくまで病気と闘う一家族を描いた人間ドラマでした。驚くような展開や大仰な演出はなく、時系列も一貫しており全体的にシンプルな作りとなっているのですが、そのぶん悪化していく子の病に精神を苛まれていく両親の変化が丁寧に描かれていましたし、最後に笑顔を取り戻した家族の姿に涙も催されます。子どもをひとりで泥遊びさせるところをはじめ、医療技術に関しても、作品の随所に昭和らしさはあるのですが、それを感じさせない力を作品全体に感じました。家族を思う心に時代は関係ないのです。
無観客の花園が終わりました。
御所実業は、準々決勝で桐蔭学園の壁に阻まれました。 箱根駅伝と重なっていたので、スマホ画面のネット中継でしか観戦できなかったのですが、思わぬ大差がついてしまいました。 やはり強豪校ばかり相手にしてきて、スタメン選手の疲労は相当なものだったのでしょうね…。 今回は惜しい結果となりましたが、悲願の全国制覇へ、竹田監督の挑戦をこれからも応援し続けます。 同じ準々決勝、東福岡と大阪仰星の試合では、終わらない延長戦に釘付けでした。いろいろな条件が重なったこともありますが、48分などという時計は少ない経験ながら見たことがありません。 「敵と味方ではなく、最後は30人で試合をしているような感覚」という選手のコメントがすべてです。反則を許されず緊張感ある攻防のはずなのに、その長い長い時間は勝敗などもう関係なく、全員がハイレベルのラグビーを楽しんでいるかのような、観ている者にまでそれが伝わってくるような時間でした。ノーサイドを迎えた瞬間、選手の表情には笑顔と涙の他に充実感も見えました。結果的には抽選で勝敗は分かれたものの、この試合を演出した両校全員が勝者であったと思います。 この場で声を枯らして応援したかったであろう家族や控え部員は、いかほど無念であったろうか。 選手や監督の声が響く以外は静かなグラウンド、それでも最後まで無観客を忘れるような熱い戦いを見せてくれました。 桐蔭学園は強かった。京都成章もあと一歩でした。どのチームもそれぞれ個性があって、改めて高校ラグビーは面白いと感じました。 明日は大学ラグビーです。天理大が初優勝なるか、こちらも楽しみです。 花園は無事日程を終えたものの、同時期に開催されていた高校バスケやバレーにはコロナの影響で辞退や棄権が相次ぎました。 大相撲初場所も始まりましたが、たくさんの休場力士が出ています。 緊急事態宣言はすでに発令されていますが、昨年のように街中の様子が大きく変わることはないでしょう。コロナにかかることよりコロナによって経済が停滞する方を怖れる人が大半で、過半数の意見が社会の構図となるのだから。 情報化社会は多くの情報を与えてくれますが、こちらで受け取る情報を選べることはメリットでもありデメリットでもあります。 精神的に疲弊する情報は、いつからか切り棄てるようになっていました。 それでも忘れてはならないこと。 疫病に苛まれる日々があたりまえになりつつある世の中で、見えない誰かの頑張りが「あたりまえ」にならないこと。 捧げるのは感謝だけではなく、努力。 見返りも目に見える結果もないけれど、頑張れる誰かのひとりになれるように。 |
* カレンダー *
* 最新記事 *
* ブログ内検索 *
|