稀勢の里が引退表明。
直前の稽古ではその好調ぶりが報道されていましたが、初日から三日間の取り組みを見て、もう決断の時だと感じていました。 大関までは「無事是名馬」を体現していたような力士が、横綱になった直後に力士人生を終わらせてしまうような大怪我に見舞われるとは、こんな皮肉な話があるでしょうか。 横綱に昇進してはじめての場所、2017年春場所・千秋楽。 あの時休場を選んでいたら、稀勢の里は「史上最弱横綱」などというバッシングに遭うことなく、力士人生を終えられていたかもしれません。 しかし稀勢の里はみずからの「逃げない」というポリシーを貫きました。良くも悪くも、最初から最後まで、不器用な力士でした。それも含めて、愛されるべき力士でした。 ただ、相撲好きとしては休場してしっかり治してから再出場する道を選んでほしかった、と思います。 強行出場からの優勝という点で、貴乃花の前例がよく持ち出されていましたが、貴乃花はそれまでに大横綱として申し分ない成績を残していた上での快挙であり、そしてそれが結局最後の輝きになってしまいました。横綱になったばかりの稀勢の里が決して踏んではいけない轍であったはずです。もちろん休場が続けばそれはそれで引退を迫られてしまう可能性もありますが、復活する可能性はずっと高かったでしょう。 昨年のプリンセス駅伝で足を負傷した選手が残り約300メートルを四つん這いになって進み切り襷を渡したレースが波紋を呼びましたが、どんな場においても、代償の大きい強行出場を美談で終わらせてはいけないと思うのです。 プロ野球なら実績のある選手は怪我で活躍できなくてもある程度在籍させてもらえます。 相撲界でも、大関止まりならどれだけ陥落しても本人の望む限り再起を期すことができます。稀勢の里の優勝決定戦の相手だった照ノ富士は、怪我と内臓疾患のために三段目まで下がってしまいましたが、関取復帰への挑戦をまだ続けようとしています。しかし横綱になると選択肢は引退しかありません。それだけ相撲はスポーツとは違う特殊な世界であり、中でも横綱は特別な存在です。 横綱に求められるのは、勝ち続けることです。 稀勢の里はその責を果たせず、名横綱にはなれませんでした。 もちろん稀勢の里を休場させることができなかった親方、協会にも責任があると思います。「日本出身横綱」にこだわるあまり稀勢の里を必要以上に持ち上げる相撲協会には、最近辟易していました。そのこだわりが稀勢の里の選択を狭めてしまったのではないか、とも穿ってしまいます。 モンゴル力士内での暴力騒動で日馬富士が引退したり、立ち回りに失敗した貴乃花が協会を去ったり、さまざまなことが起きた角界で、この初場所結局ひとり横綱になってしまった白鵬。 力の衰えは隠せなくなってきたものの、今度はその技術で白星を伸ばしています ただ最近の白鵬を見ていると、朝青龍引退後のひとり横綱時代よりもずっと孤独に見えます。 東京オリンピックまでその技と体は保たれることでしょうが、心のほうが少し心配です。 相撲界はいったいどこへ向かっているのでしょう。 結局、稀勢の里と白鵬の両横綱が優勝争いをするような場所を見ることはできませんでした。 この先、「若貴曙時代」「青白時代」のような、強い横綱同士がしのぎを削る新たな時代は来るのでしょうか。 御嶽海や貴景勝といった伸び盛りの三役、他にも楽しみな若手の姿はありますが、稀勢の里のような例はもう出さないでほしいものです。 相撲好きとしては、純粋にワクワクしたりドキドキしたりする取組を見ていたいのです。 その裏にあるいろんなアレコレは、見たくないのです。 稀勢の里は記録に残る名横綱にはなれませんでしたが、ファンの記憶に残る名力士でした。 引退会見では涙でしたが、今度はテレビ中継やバラエティーで荒磯親方の笑顔を見たいなと思います。 PR "Dedicated to Masayuki Imai" 今井さんが使命を感じてこの作品の映画化に挑むも、病には勝てずメガホンを奈良橋陽子に託し、そして「チーム今井雅之」ともいえるメンバーで作り上げられたこの作品。 最初から最後まで涙を止められませんでした。 川平慈英の演技が、もう今井さんそのもので…。 『ちいさな大冒険』というドラマ(1996年・NHK)で今井さんは知的障害者の役を演じていたのですが、もう20年以上前に観たその姿に重なりました(思えばその役も、離婚した父親に会いに行く役でした)。 川平慈英が意識して演じたのかはわかりませんが、赤い靴下は確実に今井さんですね。 それ以外にも、何から何まで今井さんでした。 真人の免許証の住所に隠された「今井雅之」の文字。 『SUPPINぶるうす』の相棒役でWINDSの舞台でも共演していた岡安泰樹、そして若い頃から交流のあった吉田敦、別所哲也、藤田朋子。 「友情出演」の文字だけでもう泣けて泣けてたまらない中居くん。 今井さんが唯一立ち会った、クランクインの満開の桜のシーン。 作品のすべてに、今井さんを感じました。 生きること、死ぬこと。争い。そして、愛。 そのすべてが詰め込まれた『THE WINDS OF GOD』、ライフワークとしてきたそのお話に続く第二章として書かれたこの脚本は、まさに現代版WINDSでもあります。 否応なく情勢に巻き込まれ、限りある日々を懸命に生きた特攻隊員たち。生まれ持った特性や周囲の大人に振り回されながらも、愛を守り生きようとする真人たち。時代は移っても、生きることとそこにある愛は不変です。 生きようとすればするほど、その対称にある死はより鮮やかに浮き彫りとなり、今もこの地上のどこかでくり返される争いは、人と人との愛の崇高さを輝かせます。 「生きて、生きて、生きまくれ!」--その生をお芝居への情熱に燃やし、そして天に召された今井さん。 生きて生きて生きまくること、それがこの世に享けた生に対して真摯な姿勢であり、やがて待つ死への向き合い方なのだとあらためて思います。 映画作品としては、優れたものではないかもしれません。展開はやや性急でしたし背景の描き方も雑な部分がありました。それでも、今井さんとチーム今井のあふれる熱い思いはいっぱいに伝わってきました。 早いもので、今井さんが旅立ってからもうすぐ四年になります。 今さらながら、もう今井さんの姿をテレビで、あるいは舞台でもう二度と見ることができないのかと思うと、なぜ生前もっと作品を見に行かなかったのかと口惜しく思います。WINDSも2011年以降鑑賞しなかったし、映画版も観に行きませんでした。DVD買えばいいやと…。 販売してない…。 レンタルもしてない…。 TV放送するとも思えない…。 何とかして観る方法はないものか…。 なんと12年も前の作品。瑛太も濱田岳も若い! しかし今と変わらぬ演技力が、作品をより味わい深いものにしています。 この頃の瑛太はドラマでよく見ていたわりにたいして印象に残っていなかったのですがね…フツーの青年役ばかりだったから気づかなかったのかな…。 『重力ピエロ』『ゴールデンスランバー』と同じ伊坂幸太郎作品ですが、この作品も糸が縒り合わさっていくように真実があきらかになっていくたび、胸が痛み、祈りにも似た感情があふれてきます。 春でも冷たい風の吹く海沿いの仙台で、新しい生活を始めた椎名。河崎と名乗る新しい隣人とボブ・ディランをきっかけに出逢い、友情が芽生え、そして流されるように誘われた「広辞苑を盗む」ことに手を貸したその時から、椎名の日常は一変します。 まだ引っ越し荷物も解かれぬ間の話。 河崎の悲しい過去。麗子の凛とした強さ。電話機の向こうの家族の声。食べられなかった牛タン弁当。 わずかな日々のうちにも、さまざまなことがありました。 入学したばかりの頃は、困っている留学生に見て見ぬふりをしてバスに乗り込んだ椎名ですが、仙台を去る時はドルジの前で神さまをコインロッカーに閉じ込めます。 新幹線の先で椎名を待つのは、胃ガンを患った父親と継ぐ者のいない靴屋。 荷物が足りないと親に電話をして探させていた椎名は、もうそこにはいません。 仙台のわずかな日々とたくさんのできごとが、椎名の表情を力強いものに変えていました。 ラストにおいて、ドルジのゆくさきは観る者に委ねられることになります。ただ、いずれにせよドルジの犯した罪、そして嘘は、椎名と神さまによって救済されたのだろうと思います。 なんとなく「ドルジ=101の住人ではなく、瑛太本人なのだろう」と予想はしていましたが、画面のあちこちで示されていたその確証に気づくことができませんでした。文字だけの原作なら使える叙述トリックも、映像ならその塩梅が難しくなります。この作品のバランスは見事だったと思います。 2018年、世間の話題をさらったこの作品。 「ワンカットのゾンビ映画」としか耳にしていなかったので、何がどう評価されていたのかさっぱり知らないまま視聴を始めたので、最初の30分は、「…なぜこれが?」と疑問符だらけでした。 「この映画は二度はじまる」のキャッチコピーすら知らなかったので。 ただ、この映画の《ヒロイン》が先日まで放送していたドラマに出演していたのですが、その《ヒロイン》が出ていないので、これで終わりでないことはわかりました。 最初の30分は、いわゆる劇中劇。 その劇中劇のメイキングこそが、この作品の真の中身でした。 映画開始と同時に流れる劇中劇の質が素人目で見てもかなりアレだったのですが、「???」と感じたその秘密が後半(というか本編)で明かされます。 30分ノーカット生放送のゾンビ映画を撮れというムチャクチャな指令を受けた監督、良く言えば個性豊かな出演者とスタッフ、これで何も起きないはずがないことが観ている者にもわかるバラバラな打ち合わせ風景。 ひとりひとりの個性が引き出す《やらかし》に、何とか辻褄を合わせようとする監督たちの奮闘と、「???」の部分がピタリと重なっていくあたりは胸がすくようでした。無意味なやりとり、棒読みセリフ、カメラワークが前半と後半で異なる理由、誰もが抱くすべての疑問がきっちり回収されています。 また、最初はバラバラだったスタッフ全員の心がひとつとなって大団円を迎えるあたり、団体スポーツ感動ものを観ているような気分になります。 さらには、家族愛を描いたハートフルな作品でもあるという贅沢ぶり。決して押しつけがましいものでなく、映画愛を重ねて通じていく父親の気持ちがこの短い時間の中でしっかり伝わってきたあたりは、唸らされました。 これは、話題になるよなあ。そして内容が伝わってこないのもあたりまえだなあ。 この映画が超大ヒット作品となったその時、なるべくあらすじは読まないようにしていたのですが、何かの機会に目にしてしまいました。 「実は彗星の落下で女の子はすでに死んでいる」という、時間軸の秘密を…。 そこからまたひとオチあってよかったです。 『秒速5センチメートル』でも感じましたが、この監督は少女漫画ファンなのではなかろうか。 そのくらい、思春期の男女の心の描き方が繊細です。 一緒に観た後、ツレは「最後どうしてふたりは出逢うことができたのか」「なぜそのシーンで終わるのか」と言っていましたが。 めちゃめちゃベタな終わり方なんやけど!?(少女漫画では) 「前世あるいは別の世界で恋に落ちたふたりが、現実世界では記憶を失っているはずなのに、すれ違って『ハッ!』となる→完」なんて、もうもうもう、読むたび憧れ、描かれていないその先を妄想してはきゅんきゅんしたものです(そして自分も「ハッ」となる時を待っていた)。 そして恋を知る少女の涙。 瀧に入れ替わっている時に取りつけた奥寺先輩とのデートの日、目覚めて三葉自身に戻っていることを知ると、我知らずその頬を涙が伝います。自分でもわからない、説明できないままあふれてくる涙を三葉は止めることができません。 恋は孤独のはじまり。 相手を想うこと、それは相手のしあわせを願うこと。 そしてその未来に自分を思い描くこと。 三葉はわかっていたのかもしれません。瀧のしあわせに、自分は存在しないことを。 『秒速5センチメートル』でも主人公に恋する少女が、近くにいながら遠くに向いているその心を知って泣きながら歩くシーンがありました。今でも記憶に残っています。 この機微を男性が描いているということで、印象的でした。 さらに、どの作品でも宇宙や空が出てきますが、その映像の美しさはさすがです。 ジブリとはまた違う魅力的な空に、吸い込まれそうでした。 RADWIMPSの曲も、映画を観てみると世界観にぴったりでした。 |
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