2005年の作品です。その頃、LGBTの人権問題は今ほど大きく取り上げられてはいなかったと記憶しています。まだ彼らに対する差別意識が当然のように残っていた時代だからこそ、「配慮」を必要とせず、ここまで美しい余韻を残すラブストーリーとして描けたのではないかと思いました。 ヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールが体現する脆く弱い人間像が作品の奥行きを深めたのももちろんですが、アン・リーの描く愛はいつも観る者に鋭い刃を突きつけてきます。愛がもたらすのはしあわせではなく苦しみ。それが結局、与えるものではなく奪うという愛の根幹なのかもしれません。 イニスは幼い頃に父が同性愛者を暴行し死亡させた光景を目の当たりにしたことで、同性愛に対し悲観的な拒絶意識を持っていますが、情熱的なジャックの愛を拒絶することはできませんでした。イニスを苦しめるのは一般的な倫理観というよりも幼い頃父親に植えつけられた価値観と、悲惨な死体のありさま。そして下山後には結婚も決まっており、普通の男としての生活が待っていました。それを捨てることは、できませんでした。そういう時代でした。 一方、ひたすらにまっすぐなジャックはつねに自分の気持ちに正直に生きていきます。女性とも奔放に愛を交わし合い、直情的に結婚を決めます。妻との間にはやがて愛情がなくなりますが、彼の心にとどまり続けたのはイニスの存在でした。しかし彼のようにまっすぐ生きられない不器用なイニスは、ジャックの愛と天秤にかけて選んだ家族さえ、失ってしまいます。 それでもジャックと生きていく選択肢が、彼の中に生まれることはありませんでした。 そして彼の知らないうちに、知らないところで、ジャックは命を落とします。 イニスはどこかで、ジャックを心の支えにしていたのです。離ればなれであっても、彼の心には自分が生きている。ともに生きることはできずとも、自分は彼に愛されている。 だから孤独であっても、生きてこられたのです。 しかしジャックは死にました。彼の心にあった、自分も死にました。 次は、自分が彼を生かす番です。 彼の遺品のシャツと、彼の愛した山の写真とともに、イニスは生きていきます。 イニスの心に在ることで、ジャックは、彼の愛はこれからも生き続けます。 そしてブロークバック・マウンテンもまた、ふたりの心の中で美しくそびえ立ち続けるのです。 PR 最近話題になっているナントカpayがいったいなんのこっちゃかわからんでも、財布よりスマホを忘れると不安でいてもたってもいられなくなるのは、私もスマホ依存が強い現代人である証拠でしょうか。 何かと便利なのでパソコンよりもスマホを使って作業することが増えて、もしスマホを誰かに奪われたらそれこそ財布よりも大変なことになるなと感じていた昨今、この作品を観て「やっぱりスマホは落とさないようにしよう」と誓いました。 まあ、まとめるとそういう感想なのですが、それだけではあんまりなので。 ワタクシ、加賀谷と浦野はずーーーっと同一人物だと思い込んでいました。つまり時系列のからくりが使われていて最後にその謎が明かされるものだと…遊園地で普通に対峙して「アレ?」となり「なぜ顔がそっくりなことに誰もツッコまない?」と疑問に思い、終わってからキャストを確かめると…。 別人やん…。 千葉雄大と成田凌やん…。 『わろてんか』でふたりとも観てたやん…。 まーーーーったく気づきませんでした。同じ画面には出てきませんでしたが、千葉雄大はてんの兄で成田凌はてんの息子。しかし伯父と甥ですから似ていても無理はな……ん? 長髪男の手指が綺麗だったので、犯人の目星はついていたのですがね…浦野と加賀谷にすっかり騙されてしまいました。 いっぽう本当に入れ替わっていたのが主人公の麻美と美奈代。伏線を回収する入れ替わりトリックはいいのですが、その理由がちょっと強引で不自然さを感じました。美奈代役ももう少し北川景子に似せていたら説得力があったかもしれません。おそらく文字だけで進行する原作なら、与えられる衝撃度が違ったのでしょうが。 田中圭もこういうちょっと情けないサラリーマンを演じさせたら、今右に出る者はいないでしょう。稀有なイケメンです。 続編が作られるようですが、SNSの乗っ取られは扱ってしまいましたし、今度はどんなスマホ危機が描かれるのでしょう。やはりナントカpayか?
7/5~7 vsH ●●○
山本&大竹がどちらも4失点と互いに誤算だったにもかかわらず、オリックスはそのまま負けでソフトバンクは逆転勝ちという結果が、そのまま順位と対戦成績にも表れているわけです。 見ているとやっぱりチーム力が違います。打てる打てないではなく、やるべきことをやれているかいないかの違い(by我が家の解説者)。打球を野手が捕り損ねてもちゃんとバックアップがついていて進塁を阻止していたり、相手のミスにはきっちり乗じていたり。数字や記録に残らないところで全員がやるべき仕事をしているあたりが、常勝軍団たるゆえんなのでしょう。 エースで完敗、逆転負けときて、もう戦う気力すら失ってしまったような三戦目の7回まででした。竹安粘投見殺しで完封の気配すら漂っていましたが、二死無走者からよく逆転してくれたと思います。後藤の四球も大きかったですが、宗も昇格してから長打力が光っています。そして左腕にも逆境にも強いキャプテン福田のタイムリー、モヤ加入で火のついたマレーロの逆転打。いやー、日曜の逆転勝ちはとりわけヨロシ! 負け越してるけど愉快痛快! しかしこれでやっと対ソフバン3勝って…? 7/8~10 vsE ○●○ 勝ち越せたのは相手の状態が悪かった以上に、我が軍の状態も上がってきているからだと感じたのは親の欲目というやつでしょうか。しかし今までなら確実に負けていたであろう3戦目も勝ちを手に入れることができたのは、前半最終戦ということを差し引いても大きな白星だったと思います。ディクソン抑えが思ったよりもハマっています。そして我が家の解説者いわく中川の野球脳が光ったカードでもありました。 ブルペンデーで中継ぎが打ち込まれ延長になった時には、「この後どうするん…?」と不安しか生まれませんでした。同じ日にブルペンデーで目論見どおり完封勝ちしたロッテとは大違いです。後半に向けてもやはりここが改善されないことには、上位進出はのぞめそうにもありませんね。 しかしオールスターをはさんでまた楽天戦って、どんな日程だよ。また則本来るじゃん…。そんでもっていつになったら則本打てるようになるんですかね。 7/11 ☆フレッシュオールスター☆ オリからは、場違い感のある中川をはじめ、根本・佐野・張が出場。野手は皆安打を放ち張も無失点と、それぞれフレッシュな活躍を見せてくれました。しかしおいしいところは小園はじめ昨年の甲子園組が持っていってしまいましたね。吉田輝・根尾・藤原含め全員一軍で輝く時が待ち遠しいです。 7/12・13 ☆彡オールスター☆彡 賛否両論あるにせよ、お祭りなのですから、観る者もやる者もみんなが楽しけりゃいいんです。 初日のホームランダービー予選は吉田正が勝ち上がり。打撃投手は西武の人が務めていましたが、投げる側の出来にも左右されますね。昨年の安達も良かったですし。翌日の決勝では一転、オリックスの打撃投手なのにあまり打てませんでした(山川の打撃投手もオリのスタッフで、かなりアレだった)。そうか…西武の長打力は彼らのおかげだったのか……。優勝はできませんでしたが、本番では最後に大きな一発(この日パ唯一のホームラン)。よかったよかった。 2日目先発の山岡が1イニング限定のため、山本が1日目の最後3イニングを任されました。筒香には今年も全球ストレート勝負でリベンジ成功。原口の代打ホームランは、打たれた方もジーンと来るものがありました。 翌日の甲子園は大雨でしたが、びしょぬれながら躍動する選手はさすがプロ。阪神勢の活躍は球場がおおいに盛り上がりました。近本の最後の三塁打は、まあ、さすがに解説の古田も野暮なことは言いませんでしたね。事前に「オールスターでもガチ勝負」を提言していたはずの松田の演出は、お見事としか言いようがありません。やはり日本のプロ野球にはまだまだ松田の存在が必要なのだなあと感じます。いや、オールスターや侍ジャパンに限る話であって、ペナントではありません。 それこそ「ガチ」だった昭和のオールスターを観て育った我が家の解説者は、令和のぬるい雰囲気にずっと苦虫を噛み潰したような顔で昔話をしていましたが、私は和気あいあいの選手たちの穏やかな表情を観ているだけで楽しいのです。普段はうらめしくて仕方ない別チームの選手の活躍を手放しで喜べますし。いつものギスギスした気分を忘れて観戦できる、それがオールスターや代表戦の醍醐味ではないですかねぇ。 クリント・イーストウッド作品はいつも、実話を経緯に沿って淡々と、しかし過度にならない程度に肉付けをして、ラストまで観る者を惹きつけ、最後にはいつまでも感覚として残る味わいを与えてくれる…。 まあ、自分が彼の作風を好きなだけかもしれませんが。 この物語も実在した「クスリの運び屋」である老人が主人公で、監督みずからが演じています。 年老いた者があわせ持つ単純さと複雑さを、見事に体現しています。 デイリリーの栽培という仕事にかまけて家族を顧みることなく邁進してきたアール。しかし昔気質が災いしてデジタル時代についていくことができず、自宅も農園も差し押さえられ、家族にももちろん毛嫌いされて行き場を失ってしまいました。そんな彼に目をつけた孫の友人が、ある仕事を紹介します。それは麻薬の「運び屋」。違法とはわかっていても、見返りの多大な報酬で失ったものを取り返すことにやりがいを見出したアールは、手を引くどころかますますその新たな仕事に熱中していきます。 インターネットを全否定し、携帯電話も使ったことがないというアール。差別用語を悪気なくぶつけ、聞く気のない相手に上から目線で説教します。いつまでも自分の若い頃の価値観を引きずり現代が生み出した文明の利器を拒絶し、輝いていた頃の思い出を後生大事に守り、見境なく若い女を好み、歳下は年長者の言うことを聞くものだと思い込む、いわゆる「老害」の行動に国境は関係ないようです。 しかし、いくら世間から置いていかれようと、死を迎えるその時まで人は生き続けなければならない。 生きるために必要なもの、それは生きがいと居場所。 仕事と自宅、自分の人生そのものだった両方を同時に失ったアールが、無事故無違反という自分のこれまでの人生を買われて仕事を紹介されたことに、悪い気がしないわけがありません。そして失ったものを自分の手で得た報酬でひとつひとつ買い戻していくたび、アールの顔に生気がよみがえっていきます。 歳を取って良いことなんて何にもないけれど、ひとつあるとすれば、たいていのことには動じなくなることです。アールも長く生きて、さまざまな経験をしました。戦争にも行きました。だから、怪しげな仕事にも、怪しげな若者たちにも、自分の運んでいるものが麻薬と知っても、警察に職務質問を受けても、マフィアのボスにさえも怖気づくことはありません。彼らとの約束を破り死が目の前に迫っても、それを受け容れる余地がいつしか心の中にできているのです。現代の価値観にたやすく順応した『マイ・インターン』のベンとアールはまるで正反対の老人ですが、その部分だけは一致しています。 しかし犯罪は犯罪。警察の包囲網は、徐々にアールのもとへ近づいていきます。やがて、アールの第二の人生はついに終わりの時を迎えます。 アールはまたしても生きがいと居場所を失いました。しかし彼の人生はまだもう少し続きます。刑務所の中で、彼は花を育てます。そして毛嫌いされていたはずの娘は、彼の帰りを待っています。アールはまだ生きています。どこにいても、生きがいと帰る場所があれば、人は生きていけるのです。 イーストウッド作品を観ると、人生はひとつの物語なのだと気づかされます。英雄であろうと犯罪者であろうと、誰のものであってもそれは一本の映画になりうる、山あり谷ありの物語。 ひとりの愚かな老人が犯罪に手を染めて、その晩節を汚すことになった。ただそれだけの物語。 それだけの話のはずなのに、アールの人生はいつの間にか心の中に刻まれています。その目、その声、その言葉。とるにたらないような足跡も克明に鮮やかに照らし出すイーストウッドの手腕に、今回もまた唸らされました。米寿を超えてなお映画への情熱はやまないイーストウッドの人生もまた、ひとつの壮大な物語としてまだこれからも続いていくようです。 『僕のヤバイ妻』という連ドラがこの映画に酷似しているという噂を耳にしてから、いつか観たいと思っていた作品です。が、最初から妻(木村佳乃)がヤバイことを種明かししていて、底抜けにバカな夫(伊藤英明)がその手のひらの上で踊らされる半分コメディーだったドラマとは、噂よりも趣がずいぶん異なっていました。 そして、おそらく男女で感想が分かれてしまう作品だと思います。 物語は、妻のエイミーが失踪するところから始まります。夫であるニックの通報により駆けつけた刑事は、現場の偽装を疑います。まずここで、観る者に「ニックがエイミーを殺したかもしれない」というトラップが仕掛けられています。 しかしニックはエイミーを殺してはいなかった。むしろそんな度胸は持ち合わせていない男です。 ふたりはとあるパーティでたまたま出会って、恋に落ち、仲間の前でプロポーズをして結婚するという平凡な道を歩んできた夫婦でした。やがて夫の仕事が減り昼間からゲームに没頭するヒモとなり下がり、母の病気で夫の実家に戻ることになり、妊活もうまくいかないというどん詰まり状態になります。すれ違った夫婦はどうなるのか。そう、浮気。これもまあ、平凡ななりゆきです。 しかしその生い立ちは互いに平凡ではありません。 エイミーの母親は、有名な絵本作家でした。「完璧なエイミー」と題されたそのシリーズの主人公は彼女がモデルです。絵本に描かれたエイミーは母が自分に求めている姿であり、「完璧なエイミー」になれないことに彼女はいつもコンプレックスを抱いていました。 母と娘というのは、親子愛以上の感情が混ざりあうと特殊な関係になりがちです。エイミーはいつも母から愛情よりも先に、期待感そして失望感を受け取っていました。そしてエイミーの失踪時も、すぐさま母親は反応してマスコミの前で会見を開くのですが、その行動から行方不明の娘への愛や母としての悲しみは微塵も感じられません。そんな感情に纏わりつかれながら育ったエイミーの精神が正常に保たれるわけがないのです。 トラップを仕掛けたのは、ニックに復讐を決意したエイミー自身でした。 そしてニックもまた、幼い頃に父が出奔し、双子の妹と寄り添うように生きてきました。ただの兄妹よりも強い結びつきを感じさせるふたりの会話、そしてそれを異常とも思っていないふたりの行動には、やや世間とは乖離している感覚が見られます。ブラコンの妹からすれば兄の妻というだけで快く思わない存在になりますし、兄は絶対的な味方がいることで強気に出られます。私は女ですから、ついエイミーの立場から物事を見てしまいます。無職&母が病気だからと実家に帰る(マザコン)&シスコン&パープリンな小娘と浮気して離婚画策中&暴力と、ニックに擁護すべき点がどこにも見当たりません。男のヤスオーは「いくらなんでもニックかわいそう」と言っていましたが。 しかしエイミーの計画もまた、ならず者に有り金を奪われたことで破綻しかけます。すかさず計画変更を企てるエイミーですが、こっそりエゴサーチしたり自分の悪口を言った女のジュースに唾を仕込んだりお金を盗られて悔しがったり、それまで垣間見せていた冷静さはまるで失ってしまいました。なりふりかまわず大胆な罠を仕掛け、そして自分だけの都合で、まるで野菜でも切るかのようにたやすく人の命を奪います。 カレンダーの印から、エイミーは死ぬつもりだったようです。 さらに、お金を失ったことで逃げ道もなくなり、むしろ死へは近くなったように思います。 しかし、死ぬことは選びませんでした。考えをこらし、人を利用し、人の命を奪い、生きる道を選びました。生きて、最後までニックの傍にいることを選びました。 それが人間の、生のエネルギーなのかもしれません。もちろん、決して正しくはないのですが。 生きていくには、何が必要か。 それはエネルギーの源泉となるものです。 エイミーの源は何だったのか。ニックへの愛か。子ども欲しさか。あるいはそのどちらもか。 結局、母親への歪んだ感情がその原点のようにも思います。自分が母のような母親にはならないということを母に証明するために、ニックを使って母親になったのではないかと。ニックは種であり、そして自分を絶対に裏切らないニックを傍に置くことで、ニックのような子にさせないこともできます。 果たして、エイミーのプランCは成功するのか…。 最初から歪んでいた彼女の人生ですから、想像を超える結末が待っているのかもしれません。 |
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