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いかに寝て起くる朝に言ふことぞ昨日をこぞと今日をことしと(小大君)
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『監察医 朝顔』
質感の良い作品、とでも言いますか、最初から最後までテーマがしっかりしており、テンポや雰囲気も一定だったので、落ち着いて観られました。
人の死というのは非日常的でありながら、毎日のようにどこかでくり返されている必然の営みで、そして誰もがその瞬間まで生きていたという事実があり、その積み重ねは何人にも侵されない尊いものです。そしてその死の原因を追究することが積み重ねられた生の尊さをより照らし出すものであるということを、解剖を通して描いていたように感じました。
上野樹里の淡々とした中にも感情の揺れ幅を感じさせる演技が秀逸でした。講義の場面はワンカットで撮影されたそうですが、興味なさげだった学生たちがいつしか姿勢を正して聞き入っていたように、惹きつけられるものがありました。一見個性的な茶子先生も含め、造形的には割と平坦なキャラばかりでしたが、決して退屈することなく全話集中して観られたのは、やはり質感の良い脚本と演出のおかげでしょう。世界観を凝縮したような主題歌も良かったです。

『なつぞら』
100作目と気合を入れていた割には、ちょっと物足りなさを感じる朝ドラでした。
やはり、半年間で十勝とアニメを全部盛り込むには無理があったような。十勝の開拓をメインにするなら夕見子の生き方でもじゅうぶん見ごたえある作品になったでしょうし、黎明期のアニメはジブリ作品の原型や声優という職業の誕生も含めて非常に面白かったので、途中からほとんど製作過程の描写がなかったのがとても残念です。ワーキングマザーの問題もしかり、すべてが中途半端でした。
モデルとなったアニメーターも出産後は周囲を巻き込んで奮闘されたようですが、会社と闘ったことは同じでも、会社の入り口でひと悶着したり子どもを背負いながら原画を描いたり、実際の話のほうがよほどドラマチックでした(そういえば私も物心つき始めた頃母の職場に連れていかれたことがあったような…当時はめずらしくないことだったのかもしれません)。都合よく登場した茜さんや兄夫婦まかせにするよりも、リアルに即したほうがなつの開拓精神を描けたような気がします。
朝ドラヒロインは個性的な脇役に巻き込まれるか、みずからの個性で突っ走るか、のどちらかになりがちですが、前者の典型である『あまちゃん』はアキ自体のキャラがブレていても超強烈な脇役俳優と脚本のおかげで最後まで持っていけましたし、後者タイプの『カーネーション』や『あさが来た』も幾多の困難をその個性で乗り越えることに矛盾ないよう描かれていました(同時放送で比較されることになってしまった『おしん』も、意外と主人公は個性的系)。
しかしなつの場合、戦災孤児という出自は人生に差す陰のひとつではありましたが、家族に恵まれたおかげでそれを引きずることなく成長したため、個性のないキャラになってしまったうえ、周囲もなつに対し良識的に接する人間ばかりでこれといった敵キャラも登場しなかったために、就職や育児という人生の困難をやすやすと飛び越える(ように受け取れる)展開になってしまったことが、物足りなさを感じる大きな原因です。浮浪児であることを引きずらずに育ったなつや咲太郎(と、信さんも)に対し、ずっと陰を背負うことになってしまった千遥が最後に登場してメインキャラを食ってしまったのも仕方ない話です。
それでも終盤、千遥との再会や、『ソラ』からつながるオープニング、『ソラ』を見ながら開拓時代に思いを馳せるじいちゃんの姿などには胸を打たれました。そして最終回、十勝の丘で『火垂るの墓』を思わせる作品の構想を語るシーンもラストにふさわしい美しいカットでした(実はこのラストシーン、かなり前にネットニュースを読んでいたら最後にさらっとネタバレされていたのだ…許せん…)。
広瀬すずののっぺりした演技も物足りなさに拍車をかけていましたが、「100作目! 豪華キャスト!」と煽るなら、こんな平凡なキャラ群&展開にすべきではなかったような気もしますね…。








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舞台はチューリップの高騰に沸く17世紀のオランダ。孤児院から中年の豪商に嫁いだソフィアと若手画家ヤンの熱情的な恋を描いた作品です。
フェルメール展とタイアップしていたことは知りませんでした。確かに主人公の纏う青いドレス、姉妹のように接する女中と共有する秘密、自然光に照らし出される部屋と恋…すべてがフェルメールの描く世界のようで、絵画の中にいざなわれたような気持ちになります。
ソフィアは跡継ぎを産むために迎えられた後妻。顔も見たことのない、しかもずっと歳上の相手、それでも幼い妹たちのために結婚以外の選択肢は与えられませんでした。何不自由ない暮らしとはいってもお金持ちにはお金持ちの苦労があるもので、行きたくもない会合に連れまわされて唯一の息抜きは女中の買い物の付き添いという、まるで籠の中の鳥のような息苦しい生活。そして何よりも重荷だったのは毎晩の夫婦の営み。衰えはじめている夫にとって跡継ぎを産むための行為はムードもへったくれもなく、それに付き合わされるソフィアにとっては苦痛以外のなにものでもありませんでした。
いっぽう、女中のマリアは魚屋のウィレムという恋人がいました。マリアから聞くふたりの恋物語に、ソフィアはきっとあこがれを抱いていたに違いありません。自分はこのままサンツフォールト家の跡継ぎを産むまで夫に挑まれ続け、産んだら産んだでこの屋敷に閉じ込められ、産まなかったら産まなかったで修道院に返され修道女になるだけ、恋というものには一生縁がないはずでした。
そんな籠の中に飛び込んできた、突然の出逢い。
目と目を交わした瞬間帯びた熱、それがすべてのはじまりでした。
彼の一挙手一投足が気になって仕方ない。経験したことのない感情をもてあまし、一度は彼を遠ざけようとしたソフィアでしたが、あふれる想いを断ち切ることなどできませんでした。転がり落ちるように欲望の海へ溺れていくふたり。一方、マリアとの結婚生活を夢見てチューリップで一山あてたウィレムは、変装してヤンの家を訪ねるソフィアをマリアと勘違いし、傷心のあまり有り金を失うどころか海軍に連れ去られてしまいます。行方不明になったウィレムの子を身ごもったマリアは途方に暮れていました。恋に熱吹くソフィアは、一計を企てます。しかしそれは、破滅のはじまりでもありました。
恋はいつの時代も、人を狂わせます。どれほど先人の過ちを耳にしていても、結局同じ轍を踏み続けてしまいます。それは間違いの恋が、間違いであればあるほど人の心を揺さぶるからです。
愛なき結婚を強いられたソフィアがはじめて恋を教えてくれたヤンと結ばれ幸せになる。人の道にはずれているとわかっていても、そんな結末を、どこかで望んでしまうのです。
しかしその思いは、ソフィア(実はマリア)の出産の際のコルネリスの態度で変わっていきます。
妻の妊娠を望み、妊娠したら男子を望む夫。かつて死に瀕した妻と子を前に子の無事のみを願った夫。跡継ぎを産むためだけに若い妻を求めた夫。遠くに愛人を持つ夫。夫は自分のことなど愛していないと思っていました。自分に愛を教えてくれたのはヤンだけのはずでした。
しかし、夫は産まれてくる子よりソフィアを選びました。死を擬した彼女の前で、嘆き続けました。ソフィアは、はじめて自分が愛されていることを知りました。
ヤンが時間どおりにソフィアを迎えに来てくれていたなら、それでもソフィアはヤンとの恋に身を投じていたかもしれません。しかし、棺の中、そしてヤンを待つ間に生まれてきた夫への思慕により、ソフィアはみずからの愚かさを思い知らされたのです。しかし、駆け戻った屋敷にもうソフィアの居場所はありませんでした。彼女はもうこの世には存在しない人間なのです。
海から戻ってきたウィレムとマリアの会話で、ことの顛末を知ったコルネリス。妻を失い、そして遺子も自分の子ではないことを知った彼は、誰を責めることもなく、屋敷のすべてをマリアに託し、ひとりインドへ旅立ちます。もっとも愛のない人間と思っていたコルネリスでしたが、実はもっとも深い愛を持ち得ていたのは、実はコルネリスだったのかもしれません。それも彼が多くを失ってきて、そしてそれはみずからが罪深き人間ゆえと悟ったからなのかもしれません。
恋に溺れ、恋のためにすべてを失ったソフィアとヤン。
一度は心破れた彼らも、コルネリスのように大きな愛を持ちうることができるでしょうか。
人の心を揺さぶるのは恋。人の心を救うのは愛。
そのどちらも生きていくには必要な命の欠片。
歳月を経て、ふたたび目を交わしたふたり。そこにもう恋の熱情はありません。ただ、広い意味での愛はもしかしたら生まれるのかもしれません。それは彼らを見守る神のみぞ知る世界の話。













最悪の出逢いから恋に落ちたふたり。夢に向かう道の途中で時にはぶつかり合い、時には支え合い、やがてそれぞれの努力は実を結ぶ…。
ミュージカル調で描かれるベタベタな展開、オープニングは渋滞の高速道路で始まる陽気な歌とダンス。暗い映画を観たあとに、連休最後くらいは明るく楽しく! と選んだこの作品でしたが、地上波放送の録画だったので吹き替えがイマイチだったのと、意外なラストにちょっと肩透かしをくらいました。
しかしあとあと反芻してみると、やっぱり高い評価を受けたことも納得の、心に深くしみいるミュージカルでした。
女優を目指すミア、ジャズに人生を捧げるセバスチャン。
LA、それは夢のような場所であり、もっとも現実的でもある場所。オーディションで瞬殺されるミアは悲しく、開店資金を貯めるため方向性の違うジャズバンドに参加するセバスチャンは切ない。それでもふたりはLAの夜空に夢を描く。恋というしあわせのかけらを握りしめ、また厳しい現実に立ち向かう。
夢も愛も、愛する人の夢も手に入れたい。そんな最高級の贅沢が実現するはずもなく、ふたりが選択したのは結局、互いの夢でした。しかし互いの手が互いの背を押さなければ、決して叶わない夢でした。
別々の場所で生きることを選んだ5年後、セバスチャンの店で再会したふたり。
セバスチャンの指が紡ぐメロディーが、もうひとつの未来を描き出しました。
セバスチャンがもしミアと一緒にパリに行っていたらという未来。そこでミアは現実世界と同じように女優として成功をおさめ、セバスチャンはパリのジャズバーで演奏家になる。子どもが生まれ、デートにも出かけ、しあわせなふたりの姿が描かれる。
でもそこに、セバスチャンの夢は存在しません。
夫を連れて偶然とはいえセバスチャンの店に入ってきたミア。ふたりの間に、どんな5年間があったのかはわかりません。正式にお別れしたのか、自然消滅だったのか。少なくとも、ミアはセバスチャンが自分の提案した名前で店を開いていることを知りませんでした。セバスチャンが隣の夫に気づかないわけはなく、ミアの胸に罪悪感が生まれなかったとは思えません。
そんなミアに、セバスチャンはもうひとつの未来を見せました。
自分の夢は叶わなかった未来を。
今こうして、自分は夢を叶えたんだ。だから、これで良かったのだと。
ミアはセバスチャンの夢を、セバスチャンはミアの夢を、それぞれが互いの夢を尊重した結果、恋は終わりを迎えたけれど、ふたりの愛は夢を実現させたのです。
ならば。もしかしたらふたりは、夢も愛も愛する人の夢も手に入れたのかもしれない。
つまりこのラブストーリーは、最高級に贅沢なハッピーエンドを迎えたのかもしれない。
太陽の下の賑やかな高速道路から始まり、静かな夜の小さな店で幕を閉じた、LAの片隅の物語。
切なくて、それでもしあわせで満たされるミュージカルでした。

【ヤスオーの回想】
 僕はこの映画を「ヤスオーのシネマ坊主」では最初5点満点で★3を付けました。そもそも僕はミュージカルが好きではないのでほぼ見ないのですが、職場の映画好きの部下2人が何回も勧めるので、職場の人間関係を円滑にするため渋々見たんです。この部下2人は女性なのですが、観た直後は、やっぱりあいつらが勧めるだけあって案の定女目線のストーリーだなあ、女が夢叶えてハリウッド女優になり、地元のしがないジャズバーの店長を捨てて金持ちっぽい奴と結婚して、うまいこと子どもまで作って離婚しても養育費がっぽり、まさに女目線の人生バラ色ハッピーエンドやんと。
 さや氏もこの映画を観ていて、ラストはびっくりすると言っていましたが、この監督は「セッション」を作った奴ですから、恋と仕事の成功の両方を成就させるような甘ったれた映画は絶対に作らないので、僕はびっくりしなかったですね。2人が結ばれないラストは恋愛至上主義のバカな女が怒るから、終盤にバーの店長と結婚する未来をミュージカルで流し、2人を再会させて、きれいに終わらせたのは上手いなあと思いましたが。
 しかし、「オアシス」と同じく、この映画もずっと心に引っかかるんですよ。こういう観てから何か月も心に残る映画は、今までの経験上★3レベルの映画ではありません。そして何回も思い出して考えていると、やっぱり僕の解釈が浅かったという結論に至りました。僕はヒロインが恋か夢かで夢を選び、最後恋を選んだバージョンをミュージカルで流して、ヒロインの冷たさをぼかしていると解釈していましたが、こんなくだらない解釈を一瞬でもしてしまった自分の感性のなさが恥ずかしいですね。
 恋バージョンの妄想ミュージカルは、2人が出会ったらすぐにキスしています。男の方は好きではないバンドの仕事はしていません。ヒロインの1人芝居は成功しています。これはすべてありえなかった過去ですからね。つまりこの流れの未来はありえないんです。この過去じゃないと2人がくっつかないということは、この2人はそもそも結ばれる運命にはなかったんです。そもそもこの2人は、決して互いへの愛情を夢より軽んじてたわけではないですからね。だから別れる以外の選択肢はなかったんです。しかし、この決して結ばれることのない2人が出会わなかったら、2人共間違いなく夢は叶っていないですし、幸せにもなっていないでしょう。
 選ばなかった方の現実ではなく、完全に妄想の中の世界だと考えると、ありえなかった過去が存在するのもつじつまが合います。くっついただの別れただの、恋より夢を選んだだの、そういう現実の世界に即したものではありません。そしてこの妄想ミュージカルは2人が再会した時に始まるので、妄想は2人が共有しているものです。
 そう考えると、この2人っていったいどういう間柄の存在なんでしょうね。別れていますし、おそらくもう2度と会うこともないだろうけど、2人の妄想の中では一緒に愛を育んでいるんです。まあ、「セッション」を作ったちょっと頭のおかしい監督ですから、愛情は、現実に一緒で過ごすとかは関係なく、2人の頭の中だけにある世界、つまり現実の世界とはかけ離れた次元のものと言いたいのでしょう。ちょっと何を言っているかよくわかりませんし、僕の愛情に対する解釈とはかけはなれたものですが、そういう理屈では解釈できないところに訴えてくる映画が、いわゆるいい映画なのは間違いないです。★は3から4にこっそり変えました。
9/18 vsL ●

これというチャンスもなく、荒西が打たれて、追加点も取られるという、あたりまえのような負け…。
試合を見ていないのでとくに感想がないのですが、我が家の西武ファンには「明日も平等に負けるよ!」と言っておきました。


9/19 vsH ●

本当に平等に負けるんかい…とはいえ、惜しかったなあ。
松井雅が降格して、捕手の駒が若月になった瞬間にミスの連続。守備だけでなく、突如乱れ始めた千賀から連続押し出しで1点差に迫った直後の凡フライには開いた口が塞がりませんでした。待てのサインも出さないベンチにも呆れますが。
榊原の復帰登板で黒星がつかなかったことだけが救いでした。4敗目の増井は、同点で出てきた時点で失点覚悟でしたが、どうしてこうも予想を裏切ってくれないのか…ホント頼むよ。


9/20・21 vsM ○○

やっと9月3勝目。いきなり4失点で経過を見るのをやめ、次にチラっと見た時には同点でした。乱打戦だったので、テレビでラグビー観戦のかたわら気が気ではありませんでしたが。なぜロッテにはこんなに強気なのだろう…。その意気を西ソ日戦にも見せてほしい。
山岡も順当に12勝、タイトルまであと1勝に迫りました。京セラ番長ですから中6で投げるとすると、相手はソフトバンク。それまでに優勝が(どっちかに)決まっていないと困りますね…。


9/22・23 vsH ●●

規定まであと12回1/3の山本ですが、「勝ちはともかく防御率は余裕余裕~♪」とかましていたら、いきなり明石に先頭弾くらうわ、復帰以降サッパリの柳田に打たれまくるわ、ランナー残して降りて案の定還されるわの絶不調…。防御率はなんとか1点台をキープ。有原が完封しても超えられない数字です。残すは1試合、6イニング。何事もなく、できれば無失点で終えてほしい!
あ、結果はどうでもよかったですが、安達が心配です。山岡・山本のフォローに守備は欠かせませんから。
しかしこの対ソフトバンクの負けっぷりは何とかならんのか。ソフバンだけで借金10(西武には借金9)って尋常ではないよ?
しかもどうしてこんな瀬戸際になって、ソフバン戦ばかりなのか。相手も必死になってきてるし…。
西武は勝ってM2としました。早く決めて~楽な気持ちで最終戦の岸田引退試合を迎えさせて~。





プロレスブームがあったのは私がまだせいぜい小学校低学年くらいの頃の話だと思いますが、毎晩夢中になっていたツレと違い、私はゴールデンで中継されていたプロレス番組を観たことがありません。家族(男)がプロレスに興味がなかったことと母親が格闘技を嫌いだったことが原因だったように記憶しています。とはいえ、もちろんジャイアント馬場やアントニオ猪木の名前は知っていますし、高三の文化祭にはプロレスファンのクラスメイトの強い希望でプロレス再現ビデオを作成し、卒業記念品のためにクラス代表がジャイアント馬場にサインをもらいに行き、卒業式の日にはなんとジャイアント馬場から豪華な祝電が届きました。良い思い出です。
その頃にはすでにもうプロレス中継はされなくなっていましたが、ビデオ作成を仕切っていたのはなぜか隣のクラスの担任でした。馬場のサインをもらいに行った大阪府立体育館にはまったく関係のない何の科目担当かも知らない男性教師がついてきたといいます(その熱烈な応援風景は同行したクラスメイトが忠実に再現してくれた)。あの熱狂的なプロレスブームは、十年近く経たのちも深く心に刻みこまれていたのです。もちろんツレも例外ではありません。レスラーの出自や過激な演出がすべて作られたものであったことを知っても、幼ない頃のセンセーショナルな記憶はなおファンの心の中で色鮮やかに刻みこまれているのです。
「古き良き思い出」を忘れられないのは、ファンだけではなく当事者も同じです。
かつてスーパースターであったレスラーのラム。今では体力も技術もすっかり落ちぶれたものの、スーパーのアルバイトとかけもちしながら細々とレスラー稼業を続けてきました。痛々しい姿をリング上で晒し、心臓に支障をきたしてしまうも、心の支えはストリッパーのキャシディ。そして娘のステファニー。一度は心を通わせるも、みずからの弱さが原因で関係は壊れてしまいます。結局、自分の居場所はリングの上にしかないと、命の危険を知りながらもふたたびリングに上がることを決意したラム。試合の相手も制止するほどの瀬戸際に立たされながら、それでもラムは観客の声援に応えるように戦いを続けます。
ラムは愚かな人間です。選手としてのピークは過ぎてもリングに固執し、女とクスリの誘惑には勝てず、娘にも愛想をつかされ、好きな女にフラれてはやけっぱちになり。
しかし、人間とはそんなものです。かつてのスーパースターも、平凡ないち市民も、なにも変わりません。人生の軌道修正は容易ではありません。とくに老いてはなお、今までの自分を変えることなどできないし、ましてや時間を戻すことなどできようはずがないのです。
しかし、愚かであればこそ、ひとの人生はよりいっそう輝きを増していきます。悲しく小さく不器用で、それでもひたむきに懸命に生きようとする命。死を覚悟したリングにあっても、彼はその間際までスポットライトを浴びて輝き続けたのです。そしてその思い出は、20年を経ても変わらぬ瞳で声援を送り続けたファンの心の中で、輝き続けることでしょう。多くのプロレスファンがそうであるように。
プロレスが多くの演出による嘘の世界であったことがわかったとしても、その思い出が否定されるわけではありません。隣のクラスの担任も、名も憶えていない教師も、そしてツレも、皆そのプロレスの思い出の中にいます。そんな幸せな世界を知らずにいたことが、少し残念な気もするのです。


【ヤスオーの回想】

 上のさや氏の感想にも書いていますが、僕は80年代プロレスが大好きでした。子どもの頃はプロレス(全日本と新日本)は絶対に観ていましたから。そして、その頃好きだったタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンが、何十年も経ってヨボヨボの姿で出てきたのを観ると、ちょっと哀しくなりますが、決してバカにはしません。むしろ尊敬や称賛の心しかありません。この映画でも落ち目のランディがリングに上がっている時にファンはバカにしていましたか。していなかったでしょう。レスラーは普段から身体を鍛え、その身体をリングで酷使しています。それだけでなく、この映画でも描いてある通り、凶器攻撃で血みどろになったり、カッターで自分を切って流血シーンを演出したり、副作用があるのはわかっていながらステロイドを服用したり、自分の身体を過度に痛めつけています。しかしそれはひとえにファンを楽しませたいからです。試合展開はやらせでも、そこまでしてファンを楽しませたいという気持ちは本物です。ランディは元々は一世を風靡した人気レスラーということですから、それは最も強かったとかではなく、ファンを楽しませたいという気持ちがトップクラスであったということです。タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンも同じです。それをファンはわかっているから、敬意を払うのです。

 この映画は、技がかっこいいとか勝った負けたではない、上の段で書いたようなプロレスの持つ本当の魅力をきちんと描いています。それだけでも僕は感動しましたね。リングではファンからブーイングばかりされ家族にも見放された落ち目のレスラーが、何かのタイトル戦で奇跡の技が決まって勝ってチャンピオンになり、ファンは大喝采で家族にも尊敬されたみたいな話なら、僕はこの映画をボロクソにけなしていましたから。こういう映画じゃなくてよかったです。

 この映画のランディの人生は悲壮感しかありません。ストリッパーにもフラれ、惣菜のバイトもキレて辞めて、娘にも決定的に嫌われ、現実の世の中が嫌になって、リングにしか自分の居場所はなくなってしまいます。孤独に悩みながらしょぼく生きるなら現実社会でも居場所はあると思うんですが、ランディはシビアな現実と過去の栄光との折り合いが付けられない人間です。

 しかし、娘との会話のシーンなんかでわかるように、ランディは自分がダメ人間であることを分かっていますし、元人気レスラーだからといって周囲の人に傲慢に接することもありませんので、過去の栄光が現実社会では通用しないことも分かっています。もちろん心臓が悪いからもうプロレスはできないこともわかってますから、リングに上がるというのは理屈に合いません。ただ、そういう理屈に合わないことをしてしまうのが、不器用な人間なんです。こんなことしたらエライことになる、損しかしないと分かっていても、自分の中にある美学というか、信念というか、とにかくその人間の中にある何があっても変わらないものに逆らうことができない。ランディの場合は自分の命すら賭けていますから、不器用な生き方の極致とも言えるでしょう。

 損得勘定に基づき環境や状況に柔軟に対応できる人間からしたら、こういう人間はただのバカなんですが、少しでも人の心があるなら、こういう人間の生きざまを見ていると、けなげだし、悲しいし、哀れだし、カッコいいし、とひとことでは言い表せない様々な感情が沸き起こります。この映画は過剰な演出を一切せず、こういう不器用を極めた男の生きざまを淡々と描いています。それが逆に心をストレートに揺さぶってきますね。

 主演も落ち目のミッキー・ロークですし、いやミッキー・ロークはむちゃくちゃ良かったですけどね。今までこの人を上手いと思ったこともないですが、この映画での彼の表現力は素晴らしいです。

 ただ、どこからどう見てもそんなにお金がかかっていないのに、これだけ完成度の高い映画を作った監督のアロノフスキーはすごいですね。同じく落ち目のヒーローである主人公の悲哀や孤独を描いた松本人志監督の「大日本人」より明らかに出来がいいですね。「大日本人」は社会風刺、愛国心、お笑い、疑似ドキュメンタリー、世界観の崩壊など色々詰め込んだ「怪作」ですから、こういう正統派の映画と比べるのはそもそもナンセンスですが。
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