突如ラスベガスに現れたフォー・ホースメンという4人組のマジシャン。彼らはプログラムのひとつとして、観衆の前でパリの銀行から金を奪い世間を驚かせました。捜査に動きはじめたFBIとインターポール。彼らはどうやってラスベガスから動かずにパリで銀行強盗を行ったのか? 目的は? その背景は? まるで義賊のように奪った金をばらまくマジシャンたちは、顔も姿もさらし、事情聴取まで受けながらも、警察を煙に巻いていきます。彼らの追跡に躍起になるFBI捜査官のディラン、インターポールから派遣された冷静沈着なメラニー、さらには手品の種明かしをすることで生活しているサディアスと、多彩な登場人物が真相に向かっていきます。 小さな手品から大がかりなショーまで、フォー・ホースメンのくり広げるマジックはまるで魔法です。観ている者も彼らの作り上げる夢の世界に連れ込まれたかのよう。 そもそも、映画も二時間夢を見ているようなものです。夢に細かいルールはありません。 ですから、細かいことを気にしてはいけません。フォー・ホースメンに選ばれた面々がそれぞれ異なった個性の持ち主で役割分担がはっきりしているゴレンジャーのようだ、とか、そんなトリック強引すぎる、とか、もはや手品でなく本当に魔術の域だ、とか、あらゆるツッコミどころが次々浮かんでくるのですが、すぐに消えてしまうくらいテンポが良く展開に惹きこまれる作品です。 ただ、ラストだけはツッコまずにはいられなかった。「真犯人=主人公」って、確か天下一大五郎が最後に犯したミステリのタブー(『名探偵の掟』)だったような…。 ただ、この最後のタブーを犯しておいてどうやって続編につなげるのでしょうか。深く考えず、また魔法にかけられる気分で楽しんでみようかな。 PR
温泉に行きたい…。
めっきりパフォーマンスの落ちたお肌を抱え、ため息ばかりの毎日。 この鬱屈を晴らすには、やっぱり温泉しかない! しかし日帰り温泉となると、アシが公共交通機関しかない我が身では選択肢が狭まる。スーパー銭湯では味気ない。十津川温泉を体験して以来、贅沢になってしまっています。 行く先を求めぼんやり地図を眺めていると…。 名張方面に、その名も「榊原温泉口」なる駅が。 近鉄一本で行ける温泉地がこんなところに! さっそくリサーチしてみると、かの清少納言が有馬・玉造とならべて三大温泉と評しているほどの名湯ではありませんか。しかも、日帰り温泉施設は駅まで送迎してくれるうえに、源泉かけ流し。これは行ってみるべし! 来ました。 なんというか…。 静かです。 まあ、気を取り直して、隣の温泉施設へ。 2時間1000円。受付で作務衣をもらい、更衣室で着替えて、階下のお風呂へ。 源泉風呂・加温風呂・露天風呂とあります。 HPには、源泉→加温→露天の順で入ると良いとありました。しかし、この源泉風呂が、31.2度。冷たい。いきなり入れない。よって順番を違えて、まずは加温であったまる。 ぬるぬるして、気持ちいい。良い質のお湯です。 ぬくもってからは行ったり来たり。何人ものお客さんが出たり入ったりしていきましたが、2時間消費しないともったいない! の気持ちで粘ります。しかしさすがに身体がふやけてきたので、ギブアップ。 化粧をするのがもったいないほど、枯れたお肌がトゥルットゥル(当社比)。 まんぞくまんぞく。 牛乳を飲んでひと休みしたあとは、隣のホテルでお昼ご飯。 月替わりの朔弁当。このボリューム! もちろんデザートまで完食しましたが。 送迎バスまで時間があるので、近くを散策してみました。 林性寺。猫が描かれているというめずらしい涅槃図があるそうですが、公開は3月の数日間だけのよう。 射山神社は縁結びで有名なようです。お伊勢参りが盛んな頃には、温泉大明神としてにぎわっていたのだとか。 少し歩いただけでも、温泉街というには活気のなさが気になりました。 温泉施設が点在しているだけでこれといった目玉がなく、伊勢神宮の宿にするにはやや距離があって不便で、といって温泉だけのために立ち寄るお客もそうそういないのでしょうが…。 近鉄電車でも榊原温泉が宣伝されているのを見たことありませんでしたし。 しかし声を大にして言いたい。 せっかくこんないいお湯があるのに! もったいない!! またお肌が疲れてきたら、ちょっと奮発して榊原温泉に行きたいと思います。 監督が『ボヘミアン・ラプソディ』の関係者とあって似た作りになっていたせいで、若干二番煎じ感を抱いてしまいました。また、フレディ・マーキュリーと違い、エルトン・ジョンや『Your Song』の名前は知っていても彼がどんなミュージシャンでどんな曲を歌っていたのかはまるで知らなかったので、『ボヘミアン』よりピンと来なかった部分があったことは否めません。 ただ、天才は孤独ーーエルトン・ジョンもまた、その方程式から逃れられない人間のひとりだった、ということはしっかりと伝わりました。 しかしフレディとジョンは違う人間です。孤独の苦しみは同じであっても、その背景や立ち直り方はもちろん違います。 アルコールと薬物とセックスの依存症から脱却するための集会で語られ始まる彼の半生の物語。 幼少期から孤独と闘ってきたレジー少年。ピアノと出逢い、才能に目覚め、友と理解者を得て、やがて世界中から称讃と大喝采を受けるようになる。 超満員のライブハウス、奇抜な衣装、酔わせる歌詞とスタイリッシュな音楽。ミュージカルはカラフルでめくるめく。しかし心に届くのは、お金でも名声でも満たされない彼の淋しさと悲しさ。 心の隙間を埋めようと、彼はあらゆるものを手に入れて、あらゆるものを失いました。 ほんとうに欲しかったものは、ひとつだけ。代わりのきかない、永遠に手に入らない、たったひとつだけ。 すべてを語り終えて、彼はようやくそのしがらみから解き放たれる方法を見つけます。彼に、心の充足が、音楽が戻ってきた瞬間でした。 過去と向き合い、音楽への愛を見つめ直す。静かな結末でした。 作品として比較するならば、みずからの音楽を、それへの愛を魂をこめて叫んだライブ・エイドのカタルシスには勝てませんでした。しかしひとりの人間が絶望と破滅からふたたび立ちあがる方法は、人それぞれ。静かに語るエルトン・ジョンとその奇抜な衣装のミスマッチは、天才と孤独の乖離を示しているようでより切なくもありました。 作品の質を高めたのが吹き替えなしで歌い上げたタロン・エガートンの熱演であることは言うまでもありませんが、相棒の作詞家を演じたのが『リトル・ダンサー』のジェイミー・ベルというのも感慨深いものがありました。違うお話であることはわかっているのですが、大人の寛容と包容力を得て成長したビリー少年を観ているような気にもなったのです。 ポン・ジュノや山下敦弘のもとで修行を積んだ片山慎三の初監督作品。キム・ギドクの『悪い男』がベースにあったそうですが、男が女を売春させる以外に共通する部分はありません。 むしろ、人物の心情を遠景で表現する撮り方はさすがポン・ジュノの助監督を勤めただけあって、似通ったものを感じました。また片田舎の小さなコミュニティの中で入り乱れる長閑とは程遠い人間模様は、山下敦弘の『松ヶ根乱射事件』を思い起こしました。 身体障害を理由にリストラされた兄・良夫。知的障害者である妹を抱えての生活は次第に逼迫していき、電気も止められ食べるものにも事欠く日々。そして良夫はある決断をします。 貧すれば鈍す。 お金を出して映画を観る人間のたいていは、その言葉とは離れたところにいるだろうと思います。 兄妹のありさまは、我々のまだ鈍していない感覚を、これでもかと切り刻んできます。 生活のために、売られた妹。それがどういうことを意味するか理解しえない彼女は、素直に感覚の中に身を投げ出します。して、食べて、寝る。彼女は人間の三大欲求に忠実に生きています。どちらかといえば兄寄りの視点を持つ者からは、そのように見えます。 しかし、本当に悲惨なのは、自分はその意味を理解していると思っていた兄のほうなのかもしれません。妹は「理解しえない」と思い込み、自分がどれだけ外道なことをしているのかは「理解している」と思い込み、世界から拒絶された自分たちが生きていくにはこの道しか残されていないと思い込み。 兄もまた、「理解しえない」人間だったのだろうと思います。 友人に借りるのはお金ではなく情報であったはずです。妹が三大欲求に忠実ならば、人としてのあたりまえの尊厳もまた、持っているはずです。自分の罪を許すのは決してその罪を理解していると思い込んでいる自分自身ではないのです。 自分こそ理解しえない人間だったと思い知らされた兄の罰は、これからもきっと続いていくのだろうと思います。兄の前で泣き叫んだはずの妹が最後に見せた笑顔が、永遠に続く地獄の業火なのかもしれません。 して、食べて、寝る。 生まれ落ちれば、そんな欲求を満たすために生き、そして死ぬ。 他人に尊厳を傷つけられて、どれだけもがき苦しもうと、人は容易には死ねません。生きたい。それもまた、人間のあたりまえの欲求だから。人が人として胎内に根づいた瞬間に、三大欲求よりも前に生まれる欲求だから。 だからもしかしたら、この物語の中でいちばんしあわせだったのは、妹のお腹の中にいた誰が父親ともわからない命の種だったのかもしれません。振り下ろせなかったコンクリ片ではなく、冷たい器具によっていとも簡単に生への欲求を潰されたそれは、少なくとも誰かを苦しませることも傷つけられることもせずに済んだのだから。 |
* カレンダー *
* 最新記事 *
* ブログ内検索 *
|