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いかに寝て起くる朝に言ふことぞ昨日をこぞと今日をことしと(小大君)
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3・4を鑑賞してからの1なので、これは順を追って観るべきだったと深く後悔しています。
なにせ25年前の作品ですから、CG技術は今とは較べものになりません。
それでも人形や子どもの細かい動きは、さすがだなと思います。そもそもおもちゃたちがしゃべって動いて感情を持っておもちゃのルールに従って行動しているという発想自体が素晴らしいと思います。
しかし、3・4を観てしまってから1のウッディを観ると…。
ちっせぇ…。
ウッディの器、メッチャちっせぇ…。
おもちゃだから子どもと同じ視点、感覚と受け取れば納得できます。ウッディは学級会をしきるクラスの中心格で、個性豊かな同級生がいて、ボーは美少女ヒロインで、バズは一風変わった転校生。確かに、昔読んだ児童文学の登場人物のような面々です。
そんなリーダー風吹かせる自信過剰なウッディが痛い目に遭うのも、対立関係にあった(というかウッディが一方的にライバル視していた)ウッディとバズがトラブルを通じて友情を深めるのもお約束。
そんなお約束をちゃんと最後まで見せ切る力を持っているのも、さすがディズニーアニメーションです。
しかし、その後のピクサー作品を観た時のような感動はありませんでした。
これはひとえにちっせぇウッディのせいかと…。
しかし大物ぶった小物のウッディのキャラに、唐沢寿明の声はぴったりです。ドラマでも『白い巨塔』や『不毛地帯』のような重厚な役柄よりも、こういうちょっと自信過剰だが実は気の小さいキャラ(『エール』のお父さん)のほうがハマっていると感じますから。






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ゴールデンウィークももう終わりです。

いつもなら、「今年も”Golden Weak”だったー!!」などと騒いでいるはずでした。(…いや、それも困る)

出かけたい時に出かけて、

食べたいものを食べて、

会いたい人に会って、

欲しいものを欲しい時に手に入れて、

あたりまえのように過ごしていた日常がどれだけ尊いものであったかが身に沁みます。



非日常のストレスを誰かにパスする悪循環に社会は陥っていて、

自分もそのループの中に置かれているのかと思うと沈んでしまう心が、

非日常へ向かう一歩目なのだろうとも思う。



だからなるべくできることはしようと思いました。

出かけたいところには出かけられないし会いたい人にも会えないし欲しいものも手に入れるには限界があるけれど、

食べたいものはなるべく食べよう、と。



スーパーの入り口で見かけた柏餅。

一度は断念したけれど、レジ前のワゴンでまた出会ってしまった…。

そんなん運命やん、買わなしゃーないやん…



はっ!

そうか。これがコロナ太り…!!




『太平記』
なつかしいーーーーー!
放送当時はそこまで真剣に観ていなかったので、細かい部分はうろ憶えでした。しかし今観ても色褪せない今は亡き名優たちの重厚な演技に魅せられています。そして真田広之がメチャメチャカッコイイ。いや当時も惚れていたけれど、主人公なのにやたら寡黙で反抗期な青年尊氏がカッコよすぎる。
そしてこの頃はまだアイドル的存在だった宮沢りえの演技の棒なことよ…。
ところが、放送日をすっかり忘れていて初回を録り逃してしまったのです…。鶴ちゃん演じる高時に犬合わせで屈辱を味わわされるという名場面を見逃してしもうた。痛恨の極み。まさか早朝に放送されていたとはっ!
そして『太平記』を読みたくなってきました。吉川英治にするか、森村誠一にするか、はたまた原本にするか…。手に入るだろうか?
さらに『太平記』めぐりもしたくなってきました。事態が収束したらもう一度吉野に行こうかな…。

『麒麟がくる』(承前)
もはや十兵衛よりも道三が主人公みたいな前半戦。きたのは麒麟ではなく蝮でした。そして「蝮がいく」その時も近づいてきました。いくは「逝く」です。
鬼気迫る道三の雄たけびには思わず背筋が伸びました。それまで十兵衛を振り回していた吝嗇で自分勝手な上司から、国作りを成してきたプライドをのぞかせる獣のような目、父親として高政に愛憎交錯する横顔、さまざまに表情を変える本木雅弘には圧倒されました。そして遺言かのように十兵衛と信長に未来を託した背中は、あまりにも偉大で、偉大ゆえに孤独なものでした。ほぼ絶望的な戦に出た道三の最期を、そして託された未来のゆくすえを知っているだけに、より痛切に感じます。
そしてもうひとりの年長者である明智光安もまた、ここに来て存在感を大きくしています。西村まさ彦の演じる役柄はいつも少し頼りなげだったり小悪党だったりしていたので、光安もそういう小物だと思っていたのですが、大桑城に向かうことを宣言する場面はずんと心に響きました。メジロを逃がす静の動きと悲痛な思いを爆発させる動の演技の揺れ幅は素晴らしかったです。道三と高政の板ばさみとなった苦悩が、それまでの何気ないシーンで観る者にも蓄積されていたからに他なりません。
道三と命運をともにする光安の最期も、きっと涙なしには観られないでしょう。
まだまだみずからの道を切り拓けない十兵衛ですが、大河ドラマは主人公よりもその周囲を取り巻く脇役が目立たなければ面白くないことも確かです。明智光秀が歴史の表舞台に出てくるのはしばらく先の話。長良川の戦でいったん休止の報道もありましたが、道三と光安が退場し十兵衛が美濃を去るここが前半戦のクライマックスでしょうから、妥当な判断かもしれません。
『国盗り物語』を一気読みし、ますます先が楽しみになってきました。十兵衛も信長もこの小説とはまるでキャラが違いますから、「信長の狂気に心を病んだ光秀の謀反」という今までの描かれ方とは異なる本能寺の変が待っているのだろうと期待しています。
しかし『国盗り物語』は傑作です。今までに何度も読みましたが、年を重ねてから読むとまた印象が変わりました。
若い頃「司馬遼太郎は中年男性が読むもの」と言われたことがありました(中年男性に)。その頃は「中学生が読んでも面白いのに」と思ったものですが、その意味を少しわかったような気がします。若い頃は歴史の巨大な波濤に巻き込まれるかのように没頭したものですが、中年になると「人生とは何ぞや」を登場人物に重ねて読んでいるように感じます。若い頃より死に近づいている今の自分が、小説の中で限りある命を輝かせながら生きる、そしてすでに死んでいる彼らに触れる時、少し先にある自分の死を、その瞬間に終わりを迎える生を同時に考えさせられます。いかに死ぬかを考えるようになった時、それはいかに生きるかを考えなければならないことに今さらながら気づかされるのです。
そして司馬遼太郎が『国盗り物語』を書いたのは今の自分と同じ歳の頃であった事実にもまた、戦慄を憶えています。











外出自粛も8割減も関わりない仕事のため、ずっとカレンダーどおり朝から夕まで出勤でした。
もちろん仕事があるだけありがたいのですが。
ようやくの連休も、出かけられないのでおうち時間。
ドラマの再放送はありがたい!

『JIN-仁- レジェンド』
やっと関西でも始まった総集編。10年前のドラマとは思えないクオリティの高さには、感動すら憶えます。カットされている部分があるのは残念ですが。
放送当時、原作も並行して読んでいたのですが、医療ものの印象が強かった原作に較べて、歴史の大きなうねりに否応なく翻弄されもがきながらも自分の生き方を模索していく仁たちの、人間ドラマの色が濃厚だったストーリーには惹きつけられました。個々のキャラクターだけでなくラストもかなり脚色されていたので、原作とはもはや別物といっていいと思います。そしてどちらも間違いなく素晴らしい作品でした。
今思えば、森下佳子の脚本は突出して見事でした。そしてその文字に鮮やかな色づけをした演者たち、とくに坂本龍馬を演じた内野聖陽は、自分の中ではベストオブ龍馬です。いわゆる「坂本龍馬」の印象は、既成の枠にとらわれない天才型で老若男女問わず人を惹きつける不思議な魅力を持っている、すなわち司馬遼太郎が『竜馬がゆく』の中で作り上げた既成概念が今でも強く息づいている人物ですが、原作の龍馬もまさにそんな雰囲気でした。しかも実物に似せた造形で、まるで写真の龍馬が動いているかのようでしたが、内野聖陽は写真とは似ても似つかぬはずなのに「坂本龍馬」そのものでした。誰でも知っている(ような気になっている)龍馬が、現代によみがえったかのようでした。今までいろいろな俳優が龍馬を演じてきましたが、内野聖陽の龍馬がいちばんホンモノに近い(ような気がする)です。
完結編は原作を読み終えてから観たので、仁と咲が結ばれないラストには悲しくてたまりませんでした。未来というドラマオリジナルの恋人を登場させた時点で、このエンドは決まっていたのかもしれません。しかし切ないながらも、余韻を残す最良のエンドだったと思います。
あらゆる点で、史上最高のドラマだったかもしれません。








アメリカの片田舎。娘を惨殺された母親が犯人を逮捕できない警察を批判する3枚の看板を掲げたことから、彼女と警察の周囲に起きる波紋を描いた作品です。
イントロダクションだけなら、閉鎖的な町の無能な警察が悪であり、母親は一方的な被害者であると位置づけられそうですが、現実はそうではありません。
母親が名指しで批判した警察署長は地域の人びとの信頼厚く部下からも慕われ、家族愛にもあふれた人格者であり、事件解決にも決して後ろ向きではありません。町の人びとからすれば彼は絶対的な善であり、彼を批判した母親は悪です。しかし犯人を捕まえられない彼は、母親からすれば悪でしかありません。
事件を解決できないことを思い悩み、そして病にも襲われた彼は、みずから命を絶ちます。
彼を死に追いやったのは3枚の看板のせいだと、残された家族が思うことは不自然ではありません。
もちろん、母親が望んでいたのは彼の自死などでは決してありません。しかし彼女は、遺族から、あるいは彼を慕っていた部下からすれば絶対的悪たる存在となってしまったのです。
人は、他者とのかかわりなく生きてはいけません。
つまり自己とは、他者の中で生まれてはじめて確たる存在となるのです。
母親の中で生きていた署長と、家族の中で、あるいは部下の中で生きていた彼とは同一にして同じではありません。
ならば、自分という存在は、決してひとりではないのかもしれません。
母親。署長。そして部下。3人の主たる登場人物は、それぞれに思い、行動し、そしてまたそれぞれの中でそれぞれの人格として生きています。
人は他者によって生かされているともいえます。
愛。憎しみ。後悔。復讐。信念。諦め。そして希望。
他者とかかわることによって生まれるさまざまな感情にもまれ苦しみながら、それでも人は生きていかなければなりません。
生きること。それは他者を受け容れること。他者の中に存在する自分を受け容れること。
その瞬間から、人の人生は始まるのかもしれません。










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プロ野球&連ドラ視聴の日々さまざま。
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