おひさま浴びて、きれいになりましょ。 PR 少年に命を救われた一匹の犬が、何度も生まれ変わりながら自分の「犬生」について考え、答えにたどりつく物語。 イントロダクションを読んだだけですでに涙が浮かんできますが、スタートすぐに箱ティッシュを引き寄せ、鑑賞後には丸めた紙が山盛りになってしまいました。 こういう人間と動物の物語では人間より寿命の短い動物の死を避けて通れませんから、行きつくところが見えてしまいがちなのですが、この作品はその結末を逆手に取って、いくつもの「死」と「新たな犬生」が描かれます。 そしてこの作品内では「犬」はあくまで「犬」であり、人間と犬が互いに言語理解していたり、人間と同等に扱われたりということもありません(犬は人語を解していますが)。 この共存関係は『動物のお医者さん』に通ずるものがあります。チョビやミケの言葉は紙面上人語で表現されますが、ハムテルたちが完全に文字どおり受け取っているかはわかりませんし、あるいは「そう喋っているのかもしれない」という人間たちの想像なのかもしれません。しかし、その大半は通じているはずです。これは犬や猫に愛情をもって接している人ならば共通する事実だからです。 ベイリーを愛したイーサン。ベイリーもイーサンを愛しました。イーサンにベイリーの言葉はすべて伝わらなかったけれど、その愛は確かにふたりの間を往復していました。 アメフトの選手として華々しい人生を送るはずだったイーサンの人生は怪我によって閉ざされました。最愛の恋人ハンナに一方的に別れを告げ、淋しげに旅立ったイーサン。彼を幸せにしたいと願いながら老衰によって閉じられたベイリーの犬生は、犬種も性別も違えて新しい朝を迎えます。 そして、イーサンではない新たな飼い主の人生に光を灯していくのです。 もちろん、すべての飼い主がイーサンに愛を与えたわけではありません。5番目の犬生では、飼育放棄をされました。道端に放棄され、どろどろに汚れ、さまよい、そしてたどりついたのは懐かしいニオイ。かつてイーサンのそばにあったニオイ。生まれ変わっても、歳月を経ても、失わなかった記憶は、彼をイーサンのもとへ導いていきました。 ようやくめぐり逢えたイーサンは、年老いて孤独に暮らしていました。 もちろん彼は薄汚れた大きな犬がベイリーとは気づきません。それでもベイリーは彼を幸せにするために生まれ変わってきたのです。甘いニオイのハンナをふたたび彼のそばへ連れていき、彼を孤独から救い出しました。 そして最後に、「イーサンにベイリーだと気づいてもらうこと」というたったひとつの願いもかなえることができたのです。 犬生とは何かを考え続けながら輪廻転生をくり返したベイリーの決着は、ベイリー自身も幸せに満たされたものでした。 犬や猫を飼う者の使命は、彼らの最期を不幸なものにしないこと。 しかしそれと同時に、飼い主自身の人生も幸せで満たされるのです。 ならば犬や猫も、彼らの使命を果たしているのかもしれません。 私も猫と暮らしていた頃、猫によってもたらされた幸せは少なくありませんでした。いやむしろ、彼らと過ごした日々が幸せそのものでした。 彼らも彼らの使命を果たしてくれていたのでしょうか。 そして「良い猫生だった」と思いながら目を閉じてくれたでしょうか。 そう信じてよいのかな。 戻ってこないうちは、そう信じていたいと思います。
必ずトップニュースで報道されていた「今日の新たな感染者数」。
ステイホームも定着してきた頃、徐々にその単位を減らし、ようやく緊急事態宣言も解除されつつあります。 とはいえ、生活が元通りになるわけではありません。 これから「新しい生活様式」が、「普通の生活」になっていくのかもしれません。 あんなに苦手だったマスクも慣れてきました。口紅を塗らなくていいし、顔下半分のファンデも減らせるし、軽く香りづけすればリラックス効果もあります。とはいえ、これから暑くなる季節、すでにかぶれが気になりますが…。 緊急事態宣言は解除されても、アベノマスクも給付金の申請書もまだ届かない地域が多くあります。政治の在り方が違うので、迅速な補償を行った海外と較べるのはナンセンスですが、それ以外の面でもあれこれマイナス要素が目立ちすぎて、ウンザリする部分が少なくありません。有事というのはいつも予想を遥か超える質量で人びとを苦しめます。終わってしまえばすべてよしにするのではなく、マクロでもミクロでも、状況に応じて柔軟に対応しながら生きていかなければならないのだろうと感じます。 インターハイに続いて、夏の高校野球も中止になりました。 体育会系だけでなくあらゆる部活動の大会が中止になっているうえ、このままでは体育祭も文化祭も通常開催できるかどうかさえ怪しいです。 自分が高3の頃を思い返してみると、「高校生活最後」をとりわけ意識していたわけではありませんが、やはり高3の時の行事は1・2年のそれに較べて強く印象に残っています。 そんな思い出作りを奪われた彼ら彼女らの気持ちを想像することすら、おこがましく感じます。 いや、「思い出」と感じるのは私が歳をとってしまったからであって、当時は日々の一瞬一瞬が大切な「今」であって、「今」より大切なものなんてありませんでした。「今後のため」だの「大人になればわかる」だの、大人の言うことはちっとも響いてこなかったのです。あとになってわかりました。大人たちの誰しもきっと、「あの時、大人に言われたことは正しかったのだな…」と、実感する時が訪れたのだろうなと。18歳の自分に「従っておけ」と教えてやりたいと思っても、もう時は巻き戻せません。 ですからやっぱり、「今」を奪われた高校生たちも、「この経験が糧になる」なんて安易な言葉に納得できるはずなどないでしょう。 今は泣いて、恨んで、呪うしかできないと思います。そして、大人たちは響かない言葉だけでなく、その行き場のない感情を少しでも解消できる何らかの道筋を与えてあげてほしいと思います。 暗い景気が社会も心も荒ませていく世の中。 自分の中に溜まった泥を、通りすがりの誰かに投げつけるような人間だけには絶対になりたくないと、日々意識して新しい生活を送っていきたいと感じています。 『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル』に続く第3作目。 大学生になった2作目のメンバーがふたたびジュマンジの世界で冒険をくり広げます。しかも、ゲームとは何ぞやレベルの老人ふたりのおまけつきですから、過酷な環境で無駄にライフを消費しまくる、前回以上のハチャメチャぶり。 さらに、前回ゲームキャラを演じた俳優が今回は違う中身で演じているのですが、まったく違和感ない芸達者ぶりも見どころのひとつ。 残りライフひとつになっても臆することなく敵に立ち向かっていくクライマックスは、残りライフを逆手に取った逆襲がオチとなっていた前作に較べて不自然さを感じなくもありませんでしたが、流れるような展開とアクションの迫力、新キャラ含めて個性豊かな登場人物たちを前にしては、「細けェこたァいいんだよ!」という声がどこからか聞こえたような気がしました。 前回はジュマンジを体験した若者たちが前向きな未来へ歩き出す話でしたが、今回はエディとマイロという若者よりもずっと死を身近に感じているふたりが、ジュマンジを経てそれぞれの未来を選び取るお話。 残り少ない人生、それでも命ある限り選択肢は無数にあり、それを自由に選ぶことができる。 前回とは違って少し悲しい味わいの、それでも爽やかなラストでした。 ラストシーンは続編を示唆するような雰囲気でしたが、もし4作目があるとしたら、今度はまったく違うメンバーで観てみたいですね。 |
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