かすむ夜の光を花とにほふにぞ月のかつらの春もしらるる(二条為明)
『俺の話は長い』
居心地の良い、とでも言いますか、毎週あたたかい空気感に包まれる1時間でした。
亡き父の古い喫茶店を切り盛りする母。ニートの弟。気の強い姉。その連れ子と不仲なことを気に病む気弱な夫。こたつを囲む5人それぞれの心模様。
働かない弟の屁理屈にひるむことなくやり返しながらも、綾子と満の距離感はやはり家族。ベタベタしない、仲良くもない、それでも会話の間合いの良さは、同じ場所で同じ食事を口にしともに暮らしてきた時間の質量を含んでいました。ドラマですから、あくまでも「家族を演じている」わけですが、演じていることを感じさせない出来でした。脚本、演出、そして生田斗真と小池栄子両者の演技力が見事なバランスで噛み合った作品だったと思います。
姉弟だけでなく、家族を演じた俳優すべてが芸達者なこともあって、まるで岸辺家という実際に存在する家族の日々をのぞいているかのような感覚にもなりました。ひとりだけ血のつながらない光司の、他人が家族の一員になっていくというスタンスを、こたつの配置(ドラマでは一般的に誰も座らないカメラに背を向ける場所で食事をする。しかし馴染んでいくにつれてこたつにもぐって顔を見せながらみかんを食べる)にしているのも面白い趣向だと思いました。
働かない理屈をこねくりまわしてばかりの満ですが、そんな満も自分と向き合いながら苦しむ姿もきちんと描き、最後にはスーツを身に纏って戦地へ赴いていきました。その背に向けられたいろんな人たちのエールに涙も滲ませながら。それは満が苦しんできたことを皆ちゃんとわかっているということでもあり、満が過ごしてきたニートの日々は無為な時間でなかったということでもあり。(面接ではやっぱりいつもの満だったけれど…あれ合格できるのか?)
その後の岸辺家を、定期的にスペシャルか何かでやってくれませんかね。
『いだてん』
いだてん最高じゃんねーーーー!!
と、声を大にして叫びたい。
ところどころに配置されたキーポイントが、最後にすべてひとつの線でつながっていく。この胸のすくような達成感は、一年間通して観た人間にしか味わえません。
そして、ストックホルムから東京まで、52年間のオリンピックを一気に堪能したような贅沢感もまた最高。
国際社会に飛び出した小さな日本という国が、戦争という大きな惨禍を経て再び世界に向けて踏みだした過程は、熊本の田舎を走っていただけの金栗四三が世界のトップランナーになっていったのと同じ。さらには、敗戦の焼け野原からオリンピックを開催できるまでに復興できた日本の姿は、オリンピックのメダルなど夢のまた夢だった弱小日本でひとり世界に目を向け高みを信じた田畑政治の精神に通じるものがあります。日本という国のアイデンティティが世界の中でかたちづくられてきた近代という時代。その輪郭を固めるにあたり欠かせなかったピースが、さまざまな国や民族が集うオリンピックという祭典で、日の丸を掲げることでした。世界の中心で日本を叫ぶ。スタートはいつもそこにありました。
こんなふうに心を揺さぶられたのは『坂の上の雲』を読んだ時以来でした。魂が共鳴したのです。嘉納治五郎が夢見た未来に、金栗四三が一歩を踏み出し、田畑政治が道筋を作った。誰も見たことのない景色の中へ、日本を連れていってくれた。
大河ドラマは結末が決まっているだけに、そこへ向かわせなければいけない作り手は、時に決められた着地点へ強引に話を展開させてしまうことがあります。作品内ではまだ誰も「答え」を知らないはずなのに、「答え」に視点を置いている作り手の意識が反映された、「答え」を知っているかのような登場人物の言動や行動を感じることは少なくありませんでした。
だからこそそれを逆手にとって、先にラストを決めて逆算で話を作っていったというクドカン脚本には、なるほど、そういうアプローチもあったのだなと感嘆させられました。
そのラストとは、オリンピックの開会式の日に志ん生が『富久』をかけたというものです。そこからいろんなエピソードを重ねて、削って、虚実あわせた人物を配置して話を作っていったという構成力は、さすがとしかいいようがありません。
オリムピック噺というだけあって、落語を通じてオリンピックと日本の歴史を重ねて語らせるという方法は、一見難解な近代史を観る者にもわかりやすく伝える試みであったはずなのですが、やはり一週一話@一年という長丁場のドラマでは、歴史的背景をあまりよく知らない近代という時代が舞台であるうえに、行ったり来たりする時系列がかえって物語を難解にしてしまったのかもしれません。「答え」を知っている視聴者が「答え」を知らない登場人物の繰り広げる物語に歴史ロマンを感じるのが、大河ドラマの醍醐味なのでしょう。日曜8時は大河と決めて絶対にチャンネル権を譲らなかった我が父がリモコンを手離してしまったように、低視聴率の理由はやはりそこにあるような気がします。
そして、その重要であるはずの現代落語パートがね…志ん生を演じたたけしがね…感想書くたびにくり返しているけどもね…森山未來のままじゃダメだったんかね…。
しかしひとりひとりに血を通わせ、笑いと涙を絶妙なバランスで混ぜ合わせていたクドカン脚本は、志ん生の『富久』以上に絶品でした。「アメリカにおもねって原爆に対する憎しみを口にしえない者は、世界平和に背を向ける卑怯者だ!」という田畑のセリフは、ここ数年の大河でも最高傑作のシーンだったと思います。
…あれ。大事なことを忘れているぞ?
美川! 美川はどうなったんだ!?
居心地の良い、とでも言いますか、毎週あたたかい空気感に包まれる1時間でした。
亡き父の古い喫茶店を切り盛りする母。ニートの弟。気の強い姉。その連れ子と不仲なことを気に病む気弱な夫。こたつを囲む5人それぞれの心模様。
働かない弟の屁理屈にひるむことなくやり返しながらも、綾子と満の距離感はやはり家族。ベタベタしない、仲良くもない、それでも会話の間合いの良さは、同じ場所で同じ食事を口にしともに暮らしてきた時間の質量を含んでいました。ドラマですから、あくまでも「家族を演じている」わけですが、演じていることを感じさせない出来でした。脚本、演出、そして生田斗真と小池栄子両者の演技力が見事なバランスで噛み合った作品だったと思います。
姉弟だけでなく、家族を演じた俳優すべてが芸達者なこともあって、まるで岸辺家という実際に存在する家族の日々をのぞいているかのような感覚にもなりました。ひとりだけ血のつながらない光司の、他人が家族の一員になっていくというスタンスを、こたつの配置(ドラマでは一般的に誰も座らないカメラに背を向ける場所で食事をする。しかし馴染んでいくにつれてこたつにもぐって顔を見せながらみかんを食べる)にしているのも面白い趣向だと思いました。
働かない理屈をこねくりまわしてばかりの満ですが、そんな満も自分と向き合いながら苦しむ姿もきちんと描き、最後にはスーツを身に纏って戦地へ赴いていきました。その背に向けられたいろんな人たちのエールに涙も滲ませながら。それは満が苦しんできたことを皆ちゃんとわかっているということでもあり、満が過ごしてきたニートの日々は無為な時間でなかったということでもあり。(面接ではやっぱりいつもの満だったけれど…あれ合格できるのか?)
その後の岸辺家を、定期的にスペシャルか何かでやってくれませんかね。
『いだてん』
いだてん最高じゃんねーーーー!!
と、声を大にして叫びたい。
ところどころに配置されたキーポイントが、最後にすべてひとつの線でつながっていく。この胸のすくような達成感は、一年間通して観た人間にしか味わえません。
そして、ストックホルムから東京まで、52年間のオリンピックを一気に堪能したような贅沢感もまた最高。
国際社会に飛び出した小さな日本という国が、戦争という大きな惨禍を経て再び世界に向けて踏みだした過程は、熊本の田舎を走っていただけの金栗四三が世界のトップランナーになっていったのと同じ。さらには、敗戦の焼け野原からオリンピックを開催できるまでに復興できた日本の姿は、オリンピックのメダルなど夢のまた夢だった弱小日本でひとり世界に目を向け高みを信じた田畑政治の精神に通じるものがあります。日本という国のアイデンティティが世界の中でかたちづくられてきた近代という時代。その輪郭を固めるにあたり欠かせなかったピースが、さまざまな国や民族が集うオリンピックという祭典で、日の丸を掲げることでした。世界の中心で日本を叫ぶ。スタートはいつもそこにありました。
こんなふうに心を揺さぶられたのは『坂の上の雲』を読んだ時以来でした。魂が共鳴したのです。嘉納治五郎が夢見た未来に、金栗四三が一歩を踏み出し、田畑政治が道筋を作った。誰も見たことのない景色の中へ、日本を連れていってくれた。
大河ドラマは結末が決まっているだけに、そこへ向かわせなければいけない作り手は、時に決められた着地点へ強引に話を展開させてしまうことがあります。作品内ではまだ誰も「答え」を知らないはずなのに、「答え」に視点を置いている作り手の意識が反映された、「答え」を知っているかのような登場人物の言動や行動を感じることは少なくありませんでした。
だからこそそれを逆手にとって、先にラストを決めて逆算で話を作っていったというクドカン脚本には、なるほど、そういうアプローチもあったのだなと感嘆させられました。
そのラストとは、オリンピックの開会式の日に志ん生が『富久』をかけたというものです。そこからいろんなエピソードを重ねて、削って、虚実あわせた人物を配置して話を作っていったという構成力は、さすがとしかいいようがありません。
オリムピック噺というだけあって、落語を通じてオリンピックと日本の歴史を重ねて語らせるという方法は、一見難解な近代史を観る者にもわかりやすく伝える試みであったはずなのですが、やはり一週一話@一年という長丁場のドラマでは、歴史的背景をあまりよく知らない近代という時代が舞台であるうえに、行ったり来たりする時系列がかえって物語を難解にしてしまったのかもしれません。「答え」を知っている視聴者が「答え」を知らない登場人物の繰り広げる物語に歴史ロマンを感じるのが、大河ドラマの醍醐味なのでしょう。日曜8時は大河と決めて絶対にチャンネル権を譲らなかった我が父がリモコンを手離してしまったように、低視聴率の理由はやはりそこにあるような気がします。
そして、その重要であるはずの現代落語パートがね…志ん生を演じたたけしがね…感想書くたびにくり返しているけどもね…森山未來のままじゃダメだったんかね…。
しかしひとりひとりに血を通わせ、笑いと涙を絶妙なバランスで混ぜ合わせていたクドカン脚本は、志ん生の『富久』以上に絶品でした。「アメリカにおもねって原爆に対する憎しみを口にしえない者は、世界平和に背を向ける卑怯者だ!」という田畑のセリフは、ここ数年の大河でも最高傑作のシーンだったと思います。
…あれ。大事なことを忘れているぞ?
美川! 美川はどうなったんだ!?
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世間で大絶賛され、実際に観て感動した『トイ・ストーリー3』の続編。その割に、芳しい評価が聞こえてこないので気になっていました。
で、実際に観た感想としては、既存ファンの低評価も納得と言わざるを得ません。
単体で見れば、面白いです。アニメとは思えない迫力も臨場感もピクサーにしか作れない高品質で、おもちゃたちの奮闘に拳を握ってしまいますし、悪役に用意された救済も心あたたかくなります。
でも、なーんか違う。
コレジャナイ感が強すぎる。
『3』しか観ていませんが、これまで引き継がれてきた持ち主の子どもとおもちゃたちの絆、おもちゃたちが心に秘めている使命感や一体感が、きれいさっぱり失われているのです。
そして一貫して主人公だったウッディの存在感がまるでありません。バズに至ってはモブもモブ、むしろアホキャラ。さらに致命的なのは、新キャラであるフォーキーの魅力をまったく感じられなかったことです。ことあるごとにゴミ箱へ直行しようとするくり返しには途中でうんざりしてきました。そして、ウッディがフォーキーに執着する理由は百歩譲って理解するにしても、結局使命感を持って寄り添っていたはずの持ち主のボニーの元を離れて旅に出るという変心に説得力を感じられませんでした。
どうしてこんなラストになったんだろう? と気になっていろいろ調べていくと、『3』までの製作者が不祥事で会社を離れ、新監督になっていたことがわかりました。そりゃ、雰囲気が変わるのも仕方ありません。しかもその不祥事がセクハラとなれば、時代に合わせた新しい女性像を描き続けているディズニーにとってはもっての外。ウッディやバズという男性キャラがメインのこの作品で、彼らを差し置いて外の世界で自立している女性(ボー)の活躍をメインに描いたのも、むしろあえてのことだったのかもしれません。
でも、既存ファンはそこを望んではいないのですよね。女性の活躍はプリンセスもので観ればいいのだし。おもちゃの世界に性差を持ち込まなくてもいいと思うのです。このシリーズにおいて活躍するのはウッディやバズや仲間たちであるべきであり、もちろんボーにスポットを当ててもいいのですが、その代わりに他を落とす必要はないはずです。ましてその対象が主要キャラであれば悲しい限りです。
今度は外の世界で活躍するウッディとボーのお話になるのでしょうか。あまり興味が湧かないな。
「おもちゃがなくなってる! あれ、いつの間にこんなところに、どうして?」という、誰でも経験したことがあるけれどたいして気にも留めなかった幼少期の一場面がよみがえり、「もしかしたら自分のおもちゃたちもこうして動き回っていたのかな」と、童心に戻ってワクワクできるところが良かったのに、あまり人目を気にすることなく走り回るおもちゃたちの活躍を観ても、そんなに面白くないと思うのです…。
同じ制服を着て教室の中に閉じ込められていることに、息苦しさを感じていました。
日々の手触りを感じられなくて、自分の存在感もつかめなくて。
ここから出たら、大学に入れば、何かが変わると思っていました。ほんとうの自分が見つかると思っていました。
けれど何も変わらなかった。
私は変えてくれる何かを待っていただけでした。どこにも落ちてなどいない、ほんとうの自分とやらを下を向いて探していただけでした。
きっと彼らも、同じだったのだろうと思います。
なんとなく大学に行って、「君のことを教えて」と訊かれても何も答えられず、きっとこの先も流れのままに就職するだけ。それを味気ない、実感のない生の営みと感じていました。
たぶん、好き嫌いの分かれる作品なのかなと思います。
惜しみない愛を与え大学に通えるだけの経済力を持つ両親がいて、「ほんとうの自分とは何か」を考えていられるだけの余暇があり、犯罪には相応の罰を与えられるべきという社会的に真っ当な倫理観を持って育ち、若さのエネルギーを持て余して現実にもの足りなさを感じた経験の持ち主であれば、彼らに共感できるでしょう。一方それらを欠いた視点で観れば、彼らのあまりにも稚拙な犯行を、いわゆる中二病の一種のように捉えるかと思います。
ちょっとワル風味なウォーレンだって、世間から見ればただの優等生です。スーパーのカートを燃やして騒いでいるホンモノのヤンキーとはつるむことができません。彼らにカートを燃やす理由は存在しません。たぶん「面白いから」「退屈だったから」、そんな答えが返ってくるのだろうと思います。しかしウォーレンは廃棄品の窃盗のいいわけに食料問題を持ち出すように、みずからの行動に基準を必要とする人間です。画集の泥棒計画も、もしそれが個人の所有物であったらおそらく実行には移さなかったでしょう。持ち主が大学という実態のない組織であり、司書は管理人にすぎない存在だったから、彼は彼の倫理観に訴えたうえで自分を納得させたのだと思います。
ウォーレンに巻き込まれるようなかたちで犯罪にかかわったスペンサーも、チャズやエリックも、それを悪いことだと自覚しながら、「誰も傷つけない」ことに自分たちを納得させてその計画に乗りました。
しかし、犯罪には必ずそれにかかわる相手がいます。誰かが傷つくから、犯罪なのです。
ほんとうの自分を探して下を向いてばかりの彼らに、その「誰か」が見えるはずはありませんでした。
自分たちの暴力で傷ついた司書を前にして、ようやく彼らは自分たちが犯した罪の大きさを自覚します。それからの彼らは、まるで早く捕まることを待っているかのようでした。
逮捕され懲役刑を受けて安堵したと彼らは言います。
なんとなく『ぼくらの七日間戦争』を思い出しました。大人たちへ反旗をひるがえした少年少女を描いたこの作品は今でも増刷を重ね、子どもたちの心をとらえています。どの時代のどの読者も、作品の中に夢を見ます。主人公たちの行動は現実には不可能であることを理解したうえで楽しんでいるのです。誰もが心の中にレジスタンスへの衝動を抱えながら、社会との折り合いをつけて成長していくのです。
彼らが「学校」「校則」を敵と見なして行動したのに対し、ウォーレンたちに敵は存在しません。彼らは何ものにも縛られてなどいないからです。束縛から解放され、集団から個になることを求められた時、みずからの存在感の不安定さに、空に漂うような不安に襲われます。明確な敵を失い、その視線はみずからに向かわざるをえません。
他者とのかかわりなくしては生きていけない以上、個は他者の中にあるからこその個となり得るのであり、個を見つめるには他者に目を向ける必要があります。それを彼らは、そして私自身も気づきませんでした。
他者への視点を失ったからこそ、成せなかった完全犯罪。被害者となった司書の女性は、この映画を観てようやく加害者を許せる気持ちになったと語ります。想像を絶する恐怖を味わいながら、過去を客観的に見つめ、そして他者である加害者へも目を向けたのです。
いっぽうの加害者たちはどうなのか。
『アイ、トーニャ』と同じ作りで、映画内では過去と現在を往来し、現在の彼らが当時を語ります。異なるのは現在の彼らが役者ではなく、実際の犯人であることです。
被害者は許すことで区切りをつけられる。しかし加害者は刑期を終えてもなお深く刻まれる後悔に苛まれています。そして、かつて友人であった彼らの生涯は、その苦い記憶ゆえにおそらく一生交わることはないであろうと思われます。若さゆえの過ちというにはあまりにも大きな代償でした。
青春時代を語る時は、誰もが遠い目になります。
あの頃のエネルギーと余暇は、二度と戻ってこないことを知っているからです。
しかし青春の真っただ中にいる時は、そのことに気づかない。いちばん大事なことは、いつも失ってからわかるのです。
しかし彼らのように後悔だけの思い出には残したくないものです。『七日間戦争』はあくまで夢の話なのですから。
ずっと観たいと思いながらなかなか機会にめぐりあわず、最近になって真犯人が現れたというニュースが流れて興味が再燃し、ようやく鑑賞できたこの作品。
『グエムル-漢江の怪物-』のポン・ジュノ監督作品とあって、構成も演出効果も素晴らしくスピード感があって、最後まで惹き込まれました。
実際に韓国で起きた連続殺人事件がモチーフになっています。80年代の終わり、まだ科学捜査は一般的でなく、警察内部でも暴力による自白強要や証拠品の捏造が横行している時代のことでした。折しも国内では民主化運動が激化しており本部の人員は手薄、捜査は後手にまわらざるをえません。「いつもの手口」で解決させようとする地元警察のパク刑事たちに対し、ソウルから応援に来たソ刑事は「書類は嘘をつかない」という持論で犯人像を推理していきます。
性格も仕事ぶりもまったく違うふたりがぶつかるのは至極当然。しかし、無惨な遺体を前にふつふつと湧いてくる真相をつきとめたいという思いは同じ。パク刑事の野性的な観察眼、ソ刑事の冷静なひらめき、互いが互いの長所を認めるのに時間はかかりませんでした。
田舎者と都会者、大柄とイケメン、一見ステレオタイプではあるのですが、決して使い古された感はありません。緊迫感ある展開とともに、ふたりの刑事の個性が実に魅力的に描かれています。
そして犯人の目星がつき解決しかけたかに思えた終盤、真相が再び闇の中に鎖ざされた時、ふたりが見せるそれぞれの絶望。知っていたはずなのに胸が苦しくなりました。
公開当時はもちろん未解決だったこの事件。刑事の職を辞し営業マンとして成功していたパクは、道中たまたま最初の現場を通りかかります。そして、真犯人も同じようにその場を訪れていたことを知り、パクの目は一瞬で商売人から刑事のそれに戻ります。
激しい怒りと憎悪をよみがえらせたソン・ガンホの両目に射抜かれるラストカットには、「真犯人が観ているかもしれない」という監督の思いがあったといいます。エンターテイメントの中にも作り手の強い意志を潜り込ませるポン・ジュノらしい演出でした。
バディを演じたソン・ガンホとキム・サンギョンをはじめ、次々現れる容疑者にいたるまでキャラクターがはっきりしていて感情移入しやすかったです。本物の事件に肉づけされた部分も多くあるでしょうが、もちろん当時のことを知らないだけに純粋な娯楽作品として楽しむことができました。ソ刑事に噂話を教えた女子中学生が被害者となった場面は、彼に貼ってもらった絆創膏をそのまま遺体に残していたことも、それを見たソ刑事が怒りのあまりかつて批判していたパク刑事らのやり方そのままに容疑者を暴行し罪を認めさせようとしたことも、結局その容疑者の潔白が判明したことも相まって、切なかったです。
結局未解決に終わったからこそ物語がドラマチックであったのは事実ですが、真犯人が判明したからといって(しかも犯人は別件で服役中のうえこの事件は時効済み)、もちろんこの作品の価値が下がるわけではありません。ただ、未解決のうちに鑑賞しておけば、より心に響くものがあったかもしれないと少しもったいなく思います。
今年はどこに行こうかな。
高野山に行ったし、次は比叡山かな…。
と、計画を立ててはみたものの、やはり日帰りでは難しいと悟り、結局近場に落ち着きました。
近鉄電車で室生寺へ。
女人高野と言われています。
たぶん、はじめてだと思います。

太鼓橋を渡ると、
室生寺です。
三本杉。
拝観料を払って仁王門へ。
さらに鎧坂を登って金堂へ。
今が見ごろなのかな?
五重塔は98年の台風で被害を受けました。当時のニュースを憶えています。
再建されたものも立派な風格です。
さらに奥の院へ。
バスが到着して寺へ向かう人の列に、途中の売店のおばあちゃんが「720段だよ~膝が笑うよ~」と声をかけていたのですが。
ちょっと舐めてました。
登れども登れども、終わりが見えない…!!

まさかあのずっと先の上に見えるものが…?(:.;゚;Д;゚;.:)ハァハァ
途中で休むと足が動かなくなりそうだったので、一気に登っちゃいました。
すぐさまベンチに直行。汗ダクダクで足フラフラ…。
お参りして御朱印をいただいてもまだ回復しませんでしたが、とりあえず帰路に。
下りのほうが辛かったです。
こりゃ筋肉痛間違いないな…。
室生寺を出て、しばらく歩いていると…。

民家の庭先に、鹿が…!
飼い鹿…なわけないか。野良鹿?
10分ほど歩くと室生龍穴神社に着きました。
雨乞いの神様とあって、パラパラと雨が。

静かな境内です。
杉の木に囲まれて厳かな雰囲気です。
鳥居前には連理の杉もありました。
ここからさらに1.3キロ先から奥へ進むと、吉祥龍穴というパワースポットがあるそうですが、膝が笑っているのでやめました。
おなかもすいてきたし…。
バスまで時間あるし…。
釜飯には大きなキノコやタケノコがごろごろ。
では飽き足らず、ぜんざいまで。
大きな草餅のみならず、お餅までおまけしてもらいました。
回転焼きをおみやげに、帰宅。
帰りの電車では疲労で爆睡。
そして翌朝、起き上がろうとしたらふくらはぎに激痛が…。
やっぱり筋肉痛でした。
でもトシを取ると数日後にやってくるというし…翌日でよかった…のか…?
高野山に行ったし、次は比叡山かな…。
と、計画を立ててはみたものの、やはり日帰りでは難しいと悟り、結局近場に落ち着きました。
近鉄電車で室生寺へ。
女人高野と言われています。
たぶん、はじめてだと思います。
太鼓橋を渡ると、
室生寺です。
三本杉。
拝観料を払って仁王門へ。
さらに鎧坂を登って金堂へ。
今が見ごろなのかな?
五重塔は98年の台風で被害を受けました。当時のニュースを憶えています。
再建されたものも立派な風格です。
さらに奥の院へ。
バスが到着して寺へ向かう人の列に、途中の売店のおばあちゃんが「720段だよ~膝が笑うよ~」と声をかけていたのですが。
ちょっと舐めてました。
登れども登れども、終わりが見えない…!!
まさかあのずっと先の上に見えるものが…?(:.;゚;Д;゚;.:)ハァハァ
途中で休むと足が動かなくなりそうだったので、一気に登っちゃいました。
すぐさまベンチに直行。汗ダクダクで足フラフラ…。
お参りして御朱印をいただいてもまだ回復しませんでしたが、とりあえず帰路に。
下りのほうが辛かったです。
こりゃ筋肉痛間違いないな…。
室生寺を出て、しばらく歩いていると…。
民家の庭先に、鹿が…!
飼い鹿…なわけないか。野良鹿?
10分ほど歩くと室生龍穴神社に着きました。
雨乞いの神様とあって、パラパラと雨が。
静かな境内です。
杉の木に囲まれて厳かな雰囲気です。
鳥居前には連理の杉もありました。
ここからさらに1.3キロ先から奥へ進むと、吉祥龍穴というパワースポットがあるそうですが、膝が笑っているのでやめました。
おなかもすいてきたし…。
バスまで時間あるし…。
釜飯には大きなキノコやタケノコがごろごろ。
では飽き足らず、ぜんざいまで。
大きな草餅のみならず、お餅までおまけしてもらいました。
回転焼きをおみやげに、帰宅。
帰りの電車では疲労で爆睡。
そして翌朝、起き上がろうとしたらふくらはぎに激痛が…。
やっぱり筋肉痛でした。
でもトシを取ると数日後にやってくるというし…翌日でよかった…のか…?
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